花の蜜に溺れて

春。
花は咲き乱れ、甘い匂いを振り撒いていた。
その薫りは、危険で、妖しい。
とろけるような誘惑に、成す術もなく、

世界は堕ちる。


*

「ん…はぁ…ぁあっ」
噎せ返るほどの香りに包まれながら、ボクはボクだけの花を抱いている。
夜空の下、花咲く野原で、あられもない声をあげる愛しい花は、周りのどれより、美しかった。
「綺麗や…」
白く透き通るような肌は、月明かりに照らされて、妖しく浮き上がっていた。乱れた髪も、動くたび、金色に輝いている。
美しい。
本当に。
「お世辞は…いいわよ…っ」
「お世辞なんかとちゃうよ。ほんまに、綺麗や」
なぜ分かってくれないのだろう。こんなにも美しいものが、世界にふたつとあるだろうか。
ボクは知らない。
何度抱いても、飽きることはなく、それどころかますます深みにはまり、溺れていく。
「はぁ…んっ」
乱れていく姿は、まるで何かの舞いのようだ。
「いやらし」
「やだ…言わないで…」
「こんな顔、他の誰にも見したらあかんで」
「…あたりまえ…じゃないっ…」
ボク以外は、誰もこの体も、この表情も見れないのだと思うと、言い様のない喜びに襲われ身震いがする。ボクは知っていてそれを言う。
ボクのもの。ボクだけのもの。

「あの、修兵君にも?」
「なにバカ言ってんの…。あんただけ…ギンだけよ」
乱菊は体を少し起こし、ボクの首に腕を回した。
「ね?」
微笑む顔は危険なほど妖艶だ。暗闇の中、その瞳はキラリと光った。ボクの中でまた糸が力なく切れる。乱菊の前では、どんな理性も通用しない。
まるで単細胞。

その時視界にチラリと蝶が舞っているのが見えた。

馬鹿のように花に溺れる虫。
まるでボクを見ているようだった。


*


「しゅうへーい!ほらこっちにも酌しなさいよー。もう空じゃなーい」
乱菊の酒豪のほどは、瀞霊廷の誰もが知っている。
「あ、す、すいません…。ただ今っ!」
酔い、がさつになっても、その姿はやはり男を引き寄せる。桃色に染まった肌は、男の視線を奪っていく。
ボクはそれが気に入らない。乱菊の熱い肌を見ていいのはボクだけだ。
「んもー。気が効かないんだからー」
飲み会において、騒がしいところには必ず乱菊がいる。それを遠くから見ていると、不躾に浴びせられる男たちの羨望の眼差しが手に取るように分かる。
夜、乱菊の淫らな姿を想像しては欲望を放つ輩が何人いるだろう。嫌悪感で吐き気がする。

「すんませんボクもう帰りますわ」
乱菊がその男の頭をわしわしと撫でたとき、席を立った。
ボクは酔うことも出来ずに、ただただ冷めていた。


「待ってよ…!」
乱菊が追ってきたのは、ちょうど花が咲き乱れるこの野原を横切っていた時だった。追ってくるのは分かっていた。それが予想より少し遅かったから、ボクは寄り道をしていた。吸い寄せられるように。この場所へ。
「どないしたん?途中で抜けてよかったん?」
「よくないわよ…。でもギンが急に帰るから…」
急いで来たのだろう。肩で息をする乱菊はうっすらと汗ばんでいた。
「乱菊…」
呼ばれて顔を上げた乱菊に無理やり口づける。抵抗する体を、逃れられないようにと腰に腕を回しそのまままさぐる。この愛しい息すら止めてしまいたいと思った。


*

そうして今ボクは乱菊を抱いている。
本能が殻を破いて現れていく。動きを速めるのと共に思考も追い付かなくなる。

「あっ…んっ…ギンっ…ギンっ…!」
ボクは知っていた。
あの時乱菊はボクをチラリと見た。
その目は言っていた。
“我慢出来るの?”

「あああっ…!」
ボクの低い呻きは、乱菊の嬌声にかきけされた。



知らない振りをして、すましてボクを誘う魔性の花。その肌に蝶が止まった。
そんな一匹の虫すら許せず、ボクはそれを払う。

あぁボクは捕らわれている。
蜜の毒気に犯されたボクは、どこまでも堕ちていく。

甘ったるい香りがたちこめていた。
それはもう彼女のものか、花のものかも分からなかった。



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