泪に還る



彼女に、当てはまる言葉といったら、
それはもう恐ろしいくらいに「温かい」しかないと思う。

僕が時々どうしようもなくなって、目の前にあるもの全てから逃げ出したくなってしまうとき、そういうときは彼女の後ろからお腹に腕を回してぎゅっとしがみついて、そのまま二人でベッドやソファーに倒れこむのだ。
そうすると決まって彼女は言う。

「大丈夫」

嗚呼、これ程まで安心する声色と言葉を生涯感じ得たことがあっただろうか。
幾度となく彼女から紡がれるその言葉だけが、まるで神の存在さえも信じてしまいそうになる程に優しくそして絶対的なのだ。

小さい彼女の手が僕の手に添えられ、数回擦るように撫でるように行き来する。子供をあやす母親のようなそれではあるが、きっと彼女は僕を落ち着ける為だけの行動として認識している。


「大丈夫、なんにも怖くない。明日には全部消えてなくなってるから」


そんなのは嘘だ。こうして目を瞑るのは、彼女を抱きしめているのは、一時の現実逃避で、本当に今しなくてはいけないことは他に沢山ある。

でも離せない。離せるわけがない。
居場所なんて此処以外にないのだから。

「今日はもう寝よっか」

彼女が、僕の腕のなかで半回転して、僕の方を向く。向き合うと、また、その唇が優しく歪んで、言葉を紡ぎ出す。

「大丈夫」

なにも心配しないで、
と。
幼い頃に、母が一度だけ読んでくれた、夢を喰らう動物のお伽噺を思い出した。内容を今でも鮮明に覚えている。後にも先にも母が母らしいことをしてくれたのはその時だけだったから。
それなのに彼女を抱きしめると母を思い出すのは何故だ。
手を握られれば、感じたことのない母の温もりを思い出すような心地になり、こうして二人で寄り添えば、言い様のない安堵が身体中を包む。

我ながら可笑しな話だ。
赤の他人、しかも自分より年下の彼女に、自分の母が重なるなんていうのは。

「夢を喰らう動物っていうのは、本当に存在するのかい」

不意に発せられた僕の台詞に、彼女は一瞬驚いたようだった。それから僕の前髪を掻き上げて額にキスをする。

「うん、いるよ」

その返事を聴いたときの僕は、酷く安心した顔をしていたのだろう。
彼女がくす、と笑って、僕の髪を撫でる。繰り返し何度も、何度も

「さあ、今日はもうこれでおしまい。早く寝て、幸せな夢を見なきゃ。あなたは、ユメクイに食べられる必要なんてない、幸せな夢を見るの。目が覚めたら朝日が昇って、そこにはなんにもない一日が始まるだけ。なんにも怖がらなくていい。大丈夫よ、ほら、目を瞑って」


両瞼に彼女の唇が落とされ、そのまま暗闇の中へと意識が野放しになる。
彼女は隣にいる。僕の髪を撫でて、静かに息をしている。きっと僕が今目を開けたなら、僕を優しい瞳で見つめる彼女と視線がかち合うはずだ。
そんなことをして、寝付きの悪い子だとは思われたくないから、しばらくそのまま目を瞑っていると、不思議なことに眠れている。
そして僕は、彼女の言う明日、全部消えてなくなった明日を夢見て、静かに意識を手放すのだ





泪に還る
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