君が望むなら、そうしよう

どうかすると開館から閉館まで、私はこの大英図書館へ入り浸ることがある。ホームズさんに頼まれた調べ物をやっていることもあれば、寄るつもりがなくともふらりと立ち寄ってしまうこともある。警備員は勿論司書にも顔を覚えられている始末で、しばしばお茶を共にするほどの仲もいる。

今日はどの誘いもお断りして、レストレード警部へ会いに行く予定だった。約束はしていないから、会えなければ適当に用だけ済ませて帰ってこようと考えていた矢先、私の座っている長机を挟んで向こう側に、一人の紳士が立ち止まったことに気がついた。私は彼を知っている。内に棲む深い知性をたたえた鈍い眼光、不恰好なほど曲がった背中、流行でもなければ廃れてもいない上品な佇まい、私の尊敬する名探偵に犯罪界のナポレオンとまで言わしめた老紳士、モリアーティ教授である。

「もしかして会えるのではと思っていたよ」

渋みのあるしわがれ声で彼が言った。

「貴方にお誘いいただいた脅迫目的のお茶会以来ですね。また私に何か御用でしょうか?」

「いや今日は個人的な用向きでこの図書館に訪れたのだ、本当だとも。その証拠に、誰も付き添わせてはいないだろう?」

「ええ。見渡す限りそのようですね。その方が、私の気持ちもずっと楽ですけれど」

教授は講義の壇上で、生徒の質問にこころよく答えようとする前のあの微笑みを私に向けた。ああ、なんの因果だろうか。これほど穏やかで優雅な紳士が、その知性で凶悪な犯罪を量産しているとはとても考えられない。貧しさのため、金のため、欲に駆られてただ悪行を働くゴロツキなどとは訳が違う。風格、名声にも申し分のない立派な人物なのだ。人間とはつくづく不思議な生き物である。好奇心は尽きない。

「よければ、この後お茶でもいかがかね?もちろん、互いの立場も、仕事上のしがらみも抜きにして」

「それは困った提案です。今はクラリッジズのアフタヌーンティしかお腹に入りませんもの」

「君が望むなら、そうしよう」

私は目を丸くした。断り文句でいったことを、彼がそのまま受け取ってさっと手を差し伸べたのだ。個人的なお茶会、ましてやクラリッジズのような高級ラウンジに、私のようなーー商売敵の娘でもあるーー小娘を誘う道理がわからない。こちらの考えを汲み取ったのか、教授はさらに言葉を続けた。

「先日初めて対面した時、君との会話は非常に楽しく時間を忘れさせてくれるようなものだった。だから、お礼がしたいのだよ。老い先短い老人の我儘と思ってくれるとありがたいのだが」

何せホームズさんでさえ手を焼いている相手だ。私など敵うはずがないとやっと理解し、降参の意味でニコリと笑みを返した。それにしても、そんな相手が自ら進んで私を二度もお茶に誘い、向かい合わせで他愛ない世間話をしたと言ったら、あの人は一体どう思うだろう。

教授は当然のように自分の馬車を外へ待たせてあり、まっすぐクラリッジズのラウンジへと私たちを運んだ。以前ここへ来たのは一度きりで、完全に萎縮してしまった私を、慣れた様子の教授が確固たる足取りで導いてくれた。ロンドンの繁栄の象徴のひとつでもあるこの老舗は、煌びやかな装飾や服装に身を包んだ人間達で賑わっている。随分突拍子もないことを口にしてしまったものだと、今は反省していた。

「君は普段からそうした格好でいる方が多いのかね」

彼が私の短く切った髪と、紳士服を眺めながら言った。私はにごして、ただ肩を竦めるだけにとどめた。

「最近では男性として振る舞うのも面倒になって来ましたが、この格好でいる時は出来るだけそうしています。知っている人の前では別ですけれどね。こんな格式高いところに、場違いな人間を連れて来てしまったと後悔しているのではありませんか?」

「そんなことはない、むしろ興味深いよ。昨今我が国では女性に選挙権を与えようという思想が盛んであることは、もちろん君もご存知だろう。ロシアでは新しい女性の運動だとかで、髪をみじかくきり、男性のように煙草を嗜み、女性の進出を主張する働きもあるという。私は賛成も反対もしないがね、どんな形であれ、何れはそんな時代が来ることは間違いない。君を通して、そんな未来の光が見えるような気がするのだよ」

そんな肯定的な意見を聞いたのは初めてで、ここでも私は面食らってしまった。ワトソンさんは頭を抱えているようだが、ホームズさんは肯定もしなければ否定も、ましてや言及もしない。ただ自由を許しているといった風にも思う。すると教授は注がれたばかりの紅茶に手をつけ、口元に運びながら付け加えた。

「すまない、無責任なことを言ってしまったようだ」

「何故です?」

「君が私の娘なら、もっと違う言葉を選ぶだろうと思ってね。他人事だから、簡単にこんなことが言えたのだ」

「ではもし、私があなたの娘ならなんと言うのですか?」

軽い冗談に、教授は笑った。いたって和やかな雰囲気だが、この人には相手に有無を言わさない支配者の空気ごまとわりついている。私たち…いや、この人は至極異質な存在である。中でもとりわけ不可解なことは、それに誰もが気づかないことだった。洒落た内装、貴族のぺちゃくちゃ言う話し声、時に響く笑い、ホテルの明かりでたまに輝いて見えるのは、彼ら彼女らの見栄と権力の塊…指輪や首飾りなどといった宝石たちだろう。その中にあって、空気や背景と一緒に、ただ私一人が運ばれてくるお菓子を待っているとでもいうように、周囲はこの人と言う異彩な存在を受け入れている。

「私は君の実の父親を知っているよ」

突然、前の会話から脈絡を奪い、教授が言った。

「勿論、彼の無きあと、君がどんな運命を辿ったのかも知っている。私は知りながら、何もしなかった。美しいものに大人が群がるのはこの世の常だからね。よくあることだ。だが今はそれを後悔しているよ、私なら君を立派に教育し、完璧な形に育てることができたと自信があるのだ」

「…私は今の環境に不満はありません」

「それは君が、今その環境にあるからだろう。私の与えたかもしれない知的な興奮に、心が躍らないと君は言い切れるかね?光も闇も、君のありあまる好奇心の前には同じものじゃないか?」

「だとしても、あの人は私を探し当ててくれました。今はその事実があるだけです、そうでしょう?それに私は十分、あなたとの会話を楽しんでいます。まさかありもしなかった事実を仮定して、ああだったら、こうだったらと無益な時間を貴方が好むとは思っていませんけれど、互いに真逆の立場だからこそ、通じ合う心もあるのではないでしょうか」

今ある事実だけで十分だろう。別の未来があったとしても、反対にきっとその未来には今はない。見るものも感じることも変化する。無かったことを論じ合うのは時間の浪費である。

「勿論だとも」

教授はいかにも楽しそうだ。この人にはきっと友人が少ないのだろう。私の非凡な育て親が、そうであるように。

「おや、スコーンのかけらとクリームが口の端に付いているよ。彼が見つけたらこう言うのではないかね?『君、クラリッジズのアフタヌーンティは美味しかったかい?勿論、僕の知らないさぞ素敵な友人をお持ちなんだろう』と」

「さあ、スコーンの欠片よりも隣人の高価な煙草の匂いと、図書館から馬車に乗り込んだことなんかが指摘されそうですが、構いません。クラリッジズに行ったことが彼に知れたところで、私は『とても親密なボーイフレンドに連れて行ってもらいました』と、渋々白状するだけでいいのです。あの人は鼻で笑って、それ以上追及しないでしょうから」

「やれやれ、君の前ではかの有名な探偵も形無しだ。無論、私も含めてだが」

どこまで本気なのだろう。私など彼が欲しがったところで、ただの荷物でしかないと思うのだが。それとも、ホームズさんが私を失った時に感じるであろう敗北感を当てにしているのだろうか?どちらかといえば、後者の方がありそうなことだ。

「…『君が私の娘なら何というのか』と聞いたね、ナマエ」

周囲の喧騒が無音に等しく感じているというのに、教授がカップをソーサーにーー黒と金で縁取られ、繊細な花々の絵が彩る美しいワンセットだーー戻した音が嫌によく耳に響く。

「きっとこう言うだろう。『君の未来はただひとつ、私に委ねた先にあるのだ』とね」

ああ、なるほど。この人は恐らく、私の手足が邪魔で仕方が無いのだ。『お前という存在は私に服従し、無秩序、混沌の頂きで静かに佇むことで完成する』のだと。


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由来様より
「図書館で遭遇して食事に誘われる」
遅くなり申し訳ございません。リクエストいただきまして、ありがとうございました。
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