そういう『家系』


朝を告げる小鳥のさえずり、窓から差し込む太陽の光、どうやらカーテンも閉めずに眠っていたようだが、私がそれに気がついたのはずっと後のことだった。体を揺さぶられてやっと意識が現実に戻って来た頃、隣でホームズさんが私の顔を覗き込んでいたことを認めた。

「君に客が来ているが」

驚いて飛び上がると、文字通りベッドから転がり落ちてしまった。それでも立ち上がり走ろうとしたが無駄である。目は覚めても体は覚醒していない。感情とは裏腹に足がもつれ、思い切り全身を床に叩きつけてしまった為に、恐らく階下のハドソン夫人まで驚かせてしまったことと思う。

こちらが顔を上げる前に、頭上からホームズさんの大きなため息が聞こえた。あまりの恥ずかしさに何一つ言葉にできない。彼は私を起こす手助けをするどころか声を掛けることもなく部屋を出ていってしまった。

外側では微かにホームズさんと、男性の会話が聞こえる。その声には聞き覚えがあった。近所の青果店の主人である。いつも朝市の手伝いをしていた息子が成長し、後も継がずに出ていったというので、代わりが見つかるまでの間、私が手伝いに行っていたのだ。

朝市の時間はとうに過ぎているから、一向に姿を見せない私を心配し、終了後に様子をみに来たというところだろう。仕事のない時には起床の遅いホームズさんが起きていたということは、恐らく来客の約束でもあるのか、もしくは徹夜の実験で眠っていないかのどちらかである。何れにしてもタイミングが悪いことには違いない。

扉の閉まる音と階段を下っていく規則正しい音は、客が帰ったことを意味していた。起きたばかりで乱れに乱れている容姿で他人に会うなど言語道断であると、ホームズさんの無言の圧力を感じる。眠気の残る体を緩々動かして身支度を済ませた後、部屋を出ると混ざり合った薬品の香りが鼻をつんと刺激した。

ホームズさんはなにも言わず、私をちらりとも見ずに実験へ没頭していた。私の方も声はかけず、黙って用事を済ませるために外出した。まずは青果店の主人に謝罪に行き、そのあとはワトソンさんの診療所の戸を叩く。私は大学の友人の誰にも自分の本当の住所を教えていないので、送られてくる手紙は全てワトソンさんの住所へと届くのだ。

「おはよう。今日は遅かったね」

いつも通り穏やかな物腰で、ワトソンさんが迎えてくれた。

「最近少し忙しくて、寝坊してしまいました」

「随分と顔色が悪いじゃないか。また君はイーストエンドの古い知り合いの頼み事を安請け合いしているのではないだろうね」

「その件はもう終わりましたよ、説教ならまたの機会に。お手紙はきていますか?」

「ああ勿論。学校の教師から一通と、また同じ女性から来ているよ。実はこの女性が昨日と今日、君を訪ねて来ているのだが…」

「次に訪ねてきたら、私は忙しいのでお相手できないと伝えておいてください。手紙の内容は私に家庭教師の真似事を頼みたいとかそんな話ですが、何より先約に三名ほどありますし、こちらは自分の勉強どころか読書もままならないありさまです。早朝は知り合いの店の手伝いで手が空いていませんし、明日はハドソン夫人が不在の為私が下宿の一切を担当することになっています。これ以上他人に使う時間はこれっぽっちもありません」

話せば話すほど不機嫌になっていく私の扱いに困り果てているのか、ワトソンさんは何事か言い辛そうにひげをもごもごさせていた。だが理由はすぐにわかった。なんと件の女性が、まさに彼の真後ろに立って、震える手を胸元でぶるぶるいわせながら、私の名前を呼んだのである。

「大変なのよ、ナマエ!次のテストの点数が悪かったら、仕送りを止めるとお母様に言われているの。力になってくれないかしら、勿論お礼はちゃんとするわ」

「あなたの成績が落ちたのは、ボーイフレンドに夢中になって誰の言うことも聞かなかったせいでしょう。自業自得だわ、帰ってちょうだい」

「お願い…あなたの言う先約っていうのはマリーも中に入っているでしょう?彼女の勉強に同席させてもらうだけでいいから…。私、やっと目を覚ましたの。今度こそ真面目にやるわ」

ワトソンさんは、心底申し訳なさそうに私を見つめていた。私が困っている人間を必要以上に無下に扱えないことを知っているからなおさらである。いや、そういう『家系』だと、彼は知っているのだ。しぶしぶこちらが了解すると、彼女は満面の笑みで喜び、私の手を取ってなんどもお礼を言った。

約束をして彼女を帰らせた後に、ワトソンさんは申し訳なかったね、と謝ってから「他人の手助けは立派なことだが、自分の体調管理を第一にしなきゃいけないよ」と軽く念を押して、私を送り出した。月並みなことだと思うが、それができていない自分の娘に心を痛めているのだ。

結局、本来の用事が済んで下宿先に着いた頃は空が暗くなっていた。濃い霧が降りて、頼りになるのは街灯のぼんやりした灯りだけ。女性の格好で出てきていたので、もっと早めに帰ってくる予定がこれである。ホームズさんはといえば、こちらが朝出てきた時となんら変わりない場所で相変わらず試験管の中で何やらかき混ぜて、満足のいかない結果に唸り声をあげるばかりだった。

「ずっとあの調子なのよ」

丁度夕食を作り終えたハドソンさんが言った。

「夕食はいつ召し上がりますかと聞いたら、今度は『一昨日の19時半に食べました』と言うのよ。まあ折角作ったものが無駄になるよりは、先に要らないとわかっていた方がずっといいけれどね。さあナマエ、今夜は私と食べましょう」

ホームズさんには、根強い習慣と何者にも狂わせ難い自分の生活リズムというものがある。つまり、自分の時間と他人に使う時間を、きちんと仕分ける能力だ。といっても、彼は否定するかもしれない。仕事こそが僕の報酬だと、常日頃から口にする彼にとっては、仕事も趣味もただの延長線上の事柄でしかないのだ。

私が部屋に戻ったのは、ハドソンさんから明日の引き継ぎを受けた後だった。レトルトの中の液体をじっと眺めているホームズさんの気に障らないように、ゆっくり扉を開けて足を踏み入れると、先ほどは気がつかなかったが、マントルピースのそばに古ぼけたブリキの大箱が無造作に投げ置かれているのが目に止まった。ホームズさんが自室から出してきたのだろう。私はその箱を、一度もみたことがない。

「うまくいったぞ、成功だ!」

突然、彼はすっくと背筋を伸ばして一本の試験管を頭上高くに掲げた。なんのことかは全く知らないが、きっと面白いことに違いないと、私は舞台の無知な観客のように大きな拍手を送りながら、そばの椅子に座り込んだ。

「おめでとうございます。何が完成したのです?大体の想像はつきますけれど…実際の現場で成果を見るのが楽しみですね」

「やあナマエ、帰っていたのかい?祝辞をありがとう。ところで君、今朝はとんだ失態をやらかしたじゃないか。まあ、あの善良な紳士の方がひどく申し訳なさそうにしていたがね。君を働かせすぎているんじゃないかと」

「いいえ、好きでやってることですもの」

「そういうと思ったよ。それなら、自己管理くらいきちんとしたまえ。さてハドソン夫人はまだ起きているかな」

「私もあなたがそう言うと思って、夕食の残りをお夜食に取って持ってきましたよ」

「君程よく気のつく学生は、イギリス中探しても1人としていないだろうね。ところでナマエ、明日は一日ここにいるのかい?」

「はい。ハドソン夫人の代理をしなければならないので、基本的には」

「そこのブリキの箱はみたかね」

「あそこにある大きな箱のことを言っているなら、勿論視界には入りましたよ。何が入っているのです?」

「僕が探偵を始めた頃、つまりワトソンと出会う前に手掛けてきた事件の記念品さ。この実験が済んだら整理しようと思って持ってきておいたのだよ」

それを聞いた直後、熱を帯びた好奇心が胸の内からほとばしった。箱の中身をひとつひとつ取り出して、検めることができたのなら、どれだけ楽しい時間が過ごせるだろう。するとホームズさんは、私の考えを手に取るように読み取った。

「覗いてみたいだろうね?」

「はい、勿論!」

「それじゃ明日、一緒にみてみようじゃないか。君が好みそうな話のタネがいくつか入っているだろう。ワトソンにも、まだ話したことのないようなものがね」

「ワトソンさんにも…?では、私が最初ですか?」

本当は今すぐにでもあの箱に飛びついてしまいたい衝動が、この顔にありありと表れていたに違いない。嬉しさのあまり次の言葉を失った私を眺め、ハンカチで爪の先まで拭きながら、彼はイタズラを仕掛けた子供のように喉でくつくつ笑った。

「顔色が良くなったのじゃないかい?」

「…。今日の私、そんなにひどい顔していました?」

「あれほど盛大に、喜劇の道化の如く転んだ人間を僕は初めて見たよ」

「!、わ、忘れてください、今朝のことは」

「おや、頬に赤みが増したね。最も、食欲は変わってないようだし、僕の過剰干渉だったらしい」

「確かに、全部食べましたけど…、もう、いいでしょう!私のことより、あの箱の中身の話が聞きたいです」

「だめだよナマエ、明日だ。ハドソンさんは朝早くから出て行くと聞いているから、もし今朝のように君が寝坊したりでもしたら、僕は朝食にあり付けなくなってしまうからね」

それでも渋っている私へ、彼はもう一度念を押すように、先ほどまで科学と取っ組み合っていたその手で私の頭を撫でた。これは私の特権のようなものだと思っている。この人が事件や研究、論文を書くのと同じ真剣さで触れてくれるのが、何よりも良い薬だった。

「疲労は一番の睡眠薬だ。ちょっと横になればすぐに夢の中だよ、僕が保障しよう」

この人の柔らかな微笑に、何度元気付けられてきたことだろう。今日もまんまと乗せられてしまった。ホームズさんの夜食の片付けを終わらせた後、私はさっさと床に就いた。眠れなかった時のために読みかけの本を枕元に置いていたが、彼の言う通り、疲労感に巣食われた体はすぐに微睡みの中へと落ちて行ったのである。


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めぐみ様より
「成長して大学生になった少女と、忙しくて疲れが溜まっている彼女を癒そうとしてくれるホームズの話」

リクエストいただきまして、ありがとうございました。





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