寝つきが悪いのは昔からです

夜も更けて、私が就寝の準備を始めていた頃、シャーロック・ホームズはパイプをもくもくとふかしながら椅子の上で膝をかかえ、微動だにしなかった。 そんな折、アメリアが自室から急に顔を出して「眠れない」と冴えた眼を瞬きさせ、その手には厚い本を一冊抱えている。

自室といっても、部屋から溢れたものをホームズが塵溜めのように放り投げていた部屋だったが、端に寄せて小さなベッドをおいてやっとマシになったという程度である。私であればきっと3日ももたないだろう部屋に、アメリアはここへ来たときからずっと住み込んでいるのだ。

「煩雑としていた方が落ち着くので、気にしたことはありません」

「だが現に眠れないのだろう?」

「寝つきが悪いのは昔からです、ワトソン先生」

「それなら睡眠導入剤を処方してあげようか。癖になってしまうといけないから、子供のうちからはあまりお勧めはしたくないのだが」

「いいえ、平気です。眠くなるまでここにいても大丈夫でしょうか。ホームズさんの邪魔になってしまうかしら」

「君なら問題ないと思うよ。静かに話しかけたりせず、そっとしておけばいいだけだから」

アメリアはホームズのそばにあるソファへ座り、本を開いた。彼女もホームズと同じようなもので、一度集中するとそこから決して動かない。ふたりをそのままにしておいて、私は就寝準備を整えて歯を磨き、自室へと入った。眠る前に先日の事件記録を眺めようとメモをめくっていたが、そのうちアメリアのことが心配になり、かえってこちらが眠れなくなってしまった。

恐らく2時間ほど経っていたと思う。私はついにたまらなくなり、そっと客間への扉を開けてみた。部屋の中には煙が充満していて、室内のあらゆるものが霞んで見えるほどだ。こんな部屋にアメリアを放っておいたら眠れるわけもないし、それどころか体に悪い。

私は抗議するつもりでいきり立ちドアを開け放ったが、アメリアの姿が見当たらない。既に自室へ戻ったのかとホッとしたのもつかの間、実はソファの上で横になり、うずくまっているだけだった。

「そのままにしておいてやってくれないか」

石膏像のような男が思い出したように言った。

「丁度うつらうつらやり始めて、やっと寝たところなんだ」

「でもこんな空気の悪いところで毛布もなく寝ていたら、風邪をひいてしまうよ」

「それじゃ窓を開けて毛布を持って来てくれたまえ。思考が固まりかけてきたから、彼女がここにいてくれたら良い話し相手になって、僕のためにもいいことなんだ」

「眠っているのにかい?」

「まあね」

それきりホームズは黙りこくって天井を見上げるばかりだった。私は言われた通り、彼女に毛布をかけてあげてから寒過ぎない程度に換気をして、そっと自室へ下がろうとした。するとまた彼が唐突にこう言った。

「明日朝1番にアメリアに何か聞かれたら、最初それを否定して『いいや、僕だよ』と答えてやってくれないか」

「何かって、何をだい?」

「大したことじゃないさ。いいから、約束してくれるね?」

「わかったよ」

「ありがとう。じゃおやすみ」

この不可思議な問答の謎が解けたのは、翌日の朝のことである。私が起きてくると、アメリアは朝食の準備を手伝っていた。「おはよう」と声を掛けると、彼女は軽く挨拶を返して

「昨日はお騒がせしました」

「よく眠れたかい?」

「正直に言うと、眠りが浅いので何度か目が覚めました。二度目くらいの時に、どなたかベッドまで運んでくださったようですが…もしかしてホームズさんでしょうか?」

疑問を投げかけられ、初めて私はホームズの言葉の意味を理解して、ちょっと迷ってしまった。彼女に嘘をついてしまうことにはなるが、本当のことを言えばホームズとの約束を破棄してしまうことになる。黙りこくっている私に、アメリアの訝しむような視線が色濃くなってきたため、仕方なく私は「いいや、僕だ」と答えた。

「でも、ワトソンさんが寝室に行ってからだと思います」

「その後一度、君が眠れたか心配になってしまって起きてきたのだよ」

「…そうでしたか。ありがとうございます」

半分は真実を言っていると自分を正当化させながら、私は朝食をとるため席についた。

なんだってホームズは、こんな回りくどいことやらせたのだろう?むろん、自分が彼女を運んだことは秘密にしておきたかったのだ。では、なんのために?

ここまで自問自答しておいて、その先はひどく人間らしい感情に行き着くことに気がついた。まるで精密機械のネジの代わりに道端の石ころをはめ込んだがごとく、冷静に働く頭脳の回転を妨げる、ホームズが普段から嫌っている気持ちなのだ。

窓から入る冷たい風が頬をさし、身じろいだアメリアを大切に抱えてベッドに寝かせた彼の姿を想像して、思わず笑いがこみ上げてきた。

「ところでホームズはどこに行ったのだろう?」

「ハドソンさんにいただいたサンドイッチをコートのポケットに入れて、早朝から出て行かれました」

「それじゃ午後までは帰ってこないだろうね。さて朝食にしよう。今夜はよく眠れるように体を動かすのが良いと思うから、食べたら散歩にでも出かけようじゃないか」


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