だが結果として、僕は失敗した


夢を見ていた。無数の手が伸びて、必死でもがいて逃げる私を捕まえるのだ。父と別れてから、幾度となく繰り返し見る夢の内容なのに、その度私は恐怖して助けを求め、悲鳴も虚しく彼らの腕の中に捉えられてしまうのだ。

完全に闇に溶け込んでしまってから、目が覚める。わたしは異常なほど汗にまみれていて、まだあのたくさんの手がベタベタとまとわりつき、身体中を撫で回しているような感覚に囚われていた。気持ちが悪い。吐き気がする。いつもなら一人でベッドから起きて洗面台に向かうところだが、今日はかってが違っていた。

私はまた、暖炉のそばのソファで眠ってしまっていたようだ。ワトソンさんがいればきっと怒られていただろう。けれど今目の前にいるのはホームズさんだけで、彼の神経質な、ほっそりとしてざらついた指先が私の目尻を拭っていた。

きっとこの手が、私を暗闇から引き上げてくれたのだと本気で考える。

「ごめんなさい」

私は謝ってしまった。泣きさけんだりしていなかっただろうかと、心配だったのだ。ホームズさんは何も答えずに、手を離してしまいそうだったので、私は咄嗟にそれを掴んでもう少しだけ触れていて欲しいと頼んだ。

がさつで支配的で、怪物のような男の手なんて気持ち悪くて大嫌いだったが、この人とワトソンさんだけは別だ。恐らく、私が起きてしまったことは彼の推理外の出来事だったらしく、彼は少し迷惑そうに眉根を寄せたけれど、私に合わせてくれた。

「わからないな」

「何がです?」

「君は僕を恨んでいるはずだ。父親と引き離し、暗い牢獄送りにして、殺した。君は君で闇の世界をさまよった挙句に、必要のない苦痛と不自由を強いられて生きてきた。ぼくは彼を捕まえたことを後悔していないし、当然のことをしたと思っている。けれど、君たち親子の人生を破滅させたことには変わりない」

きっと奇妙な、新種の植物でも見つけたような顔をしていただろう。私はホームズさんが、そんな的外れなことを考えていることに驚いた。彼が言うことは…いや、彼の推理はいつだってほとんど正しかったし、そうと決まるまで種を明かすのを嫌がるほど、真実に拘る人だったから、こんな風に疑問と仮定の入り混ざった問いかけに答えを求められるなんて、思ってもみなかったのだ。

それどころか、私はいつだって、この人に答えを求める側なのである。

「貴方は、悪人は排他すべきという、社会の要求に応えたにすぎません。私は父が信頼する人間に預けられましたが、悪人の友人はまた悪人ですから、彼はその信頼に値する人物ではなく、私を虐待しついには商品として扱いました。だから、私が不幸なのは全て父のせいです。それに貴方はあの時、私を探してくれていたではありませんか」

「…今日は君に驚かされてばかりだな。まさか知っていたなんて、一言も口にしたことはなかったじゃないか」

「隠していたわけではありませんが…数年前、危うく貴方に見つかりそうだったと、あの男が忌々しげに吐き捨てるのを聞いていました。身寄りもなく人間としての権利もない私には、それだけが希望だったのです」

「だが結果として、僕は失敗した。君がひょっこり顔を出すまで、女児行方不明という単純な謎を持て余していた無能だよ」

「いいえホームズさん。貴方のおっしゃってる事は過去です。いま私がこの部屋で貴方の瞳に映っていること、それが『結果』です。それだけでなく、貴方は私にたくさんの贅沢を与えてくれる…生きるという幸せ、自己の実感、人との出会い、学び経験し成長する権利。言葉では伝え尽くせないほどの感謝を、どう返して行けばいいのか検討もつきません」

私は目を閉じ、笑っていたのだと思う。目一杯、幸福を噛み締めながらホームズさんの手を握っていた。

「君がそう言うなら、そうなのだろう」

真夜中の明かりの中で見たホームズさんの優しい微笑みは、晴れたものではなかった。「だが僕にとっては別だ」と突き放されているように感じた。これ以上どんな言葉でも、この人の心を救うことはできないだろうと思うと、無力で、悲しかった。

「僕らしくない、非常に危険な思考だが、決めたからには最後まで引き受けるつもりだよ。君が一人の立派な成人として、我が国の発展を支えるその日までね。恩を返したいというのなら、『僕にとってもワトソンにとっても、それが何よりの喜びだ』とだけ伝えておこう」

おやすみ、と一言添えて、ホームズさんの手は私の頬を滑り離れて行ったが、私は立ち上がって彼を引き止め、頬にキスをした。

「おやすみなさい、ホームズさん」

父にさえ、したことなどなかったけれど。

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