チョコレートを食べたことがないのかい

ホームズの報酬は、退屈な日常の中に派生する常軌を逸した面白い事件に出会い、解決することに終始するのであって、依頼人から金銭を受け取らないことすらあるというのは再三述べてきたことと思う。受け取ったとしても相当の上流階級か、または交通費などのかかった経費のみの請求が大半であった。

だが、依頼人がどうしてもと代わりになる品物を差し出すのも珍しいことではない。3日前に解決した事件の依頼主などは洋菓子店を営んでいて、貴族御用達の大変はやっている店なのだが、御礼として自分の作ったチョコレートを箱に詰めて持ってきたのだ。彼は遠慮したが、彼のために完成しているものを無理に突き返すこともできず、結局はしかるべきものの手に収まったのだった。

「おいで、アメリア」

ホームズは、宿題を取り散らかしている彼女を自分の方へ呼んだ。

「ちょっと目をつむって、口を開けてごらん」

「その箱には何が入っているのです?」

「そうだな、僕にとってのコカイン、とでもいっておこう」

「ますます怪しいですし、口に入れたくありません」

「きっと後悔するよ?」

アメリアは最後まで渋っていたが、目を閉じて小さな口をぽっかり開けた。ホームズは箱を開け、真ん中にあるものを一粒摘まむと、彼女の口へゆっくり運んだ。脇で見ていた私としては、彼の指まで食べてしまうのではと心配だった。

かり、と噛み砕く音がして、口内へ魅惑の甘さがどろどろに広がっていったであろう1秒後に、彼女は目を見開いて2、3歩後ろへと下がった。まるで頭を殴られでもしたかのように、衝撃で体がふらついている。もぐもぐと動かしている口の他は微動だにせず、じっとして最高級のチョコレートを舌で味わっていた。私もホームズもその様子をただ眺めていたところ、彼女はゴクリと喉を鳴らして

「ホームズさん、コカインとは、こんなにも甘く、濃厚で、妖艶、それでいて季節の暮れに散りゆく花の如く、儚い味がするのですか?」

「どうだいワトソン、彼女には詩人の素質が十分にあるんじゃないかな」

ホームズは面白がっているが、彼女は感動でまともな発言ができなくなっている…と、私は思いたかった。どう考えても、彼が最初に言った例えが悪すぎる。とはいえ、彼女はチョコレートにいたく感動してることは確かだ。ハドソン夫人のどんなに美味しい料理にも、これほどの動揺を見せたことは未だ嘗てない。

「チョコレートを食べたことがないのかい?」

「存在くらいは知っていましたけれど、これほどまでに素晴らしいお菓子だなんて今日まで信じていませんでした。こんな糖質の塊に現を抜かすご婦人方のお頭の足りなさをあざ笑ってきたことに、お詫びしなければなりません。要するに、食わず嫌いをしていたのです。ホームズさん、まだ残っているのならもう一つだけでも私に恵んではいただけないでしょうか」

「それじゃ、ワトソン君の今日一日の足取りを当てることができたら考えてあげてもいいよ」

「なんだって?ホームズ、それは…」

「ワトソンさんは行きつけのカフェで新しい原稿に手をつけようと、徒歩で外出しました。途中気が変わりピカデリーサーカスまで辻馬車にて移動しましたが、そこでご友人に遭遇したようです。ふたりクラブで過ごすことにして紅茶を三杯くらい飲んだところで、それまで弾んでいた会話が突如不愉快なものに変わりました。恐らく、相手が先日一緒に話し合って買った株の話でワトソンさんを責め出したのでしょう。ですがあれはご友人の方が勧めてきた株だったのでワトソンさんも負けずに言い返したに違いありません。結果的に、口論になる前にどうにか話を終わらせて帰路につきましたが、どうも心の中にしこりができて納得できないまま、むっつりとした気分で帰ってきたというわけです。どうでしょう?」

「うん、見逃されている部分が多くあることは否めないけど、ほぼ当たってると思う。いつもより冴えているじゃないか」

「どうしてわかるんだい?!」

「では、チョコレートはいただけないのでしょうか…」

「いやいいよ。約束は守ろう」

ホームズがもう一粒、彼女の口へと運んで行く。まるで親鳥の嘴から食べ物与えられている雛鳥のようである。彼も同じ印象を持っているに違いない。幸せそうにチョコレートを頬張るアメリアを見つめながら、満足そうに目を細めた。

「あまりいい趣味とは言えないね、ホームズ君」

「君だって面白がっているじゃないか」

「お二人は食べないのですか?」

「君にいただかれた方が、この甘くて大粒の宝石も幸せだろう」

箱ごと手渡されたアメリアはその光栄を噛みしめるとでもいったふうに、高級感溢れるずっしりとした箱に見とれるだけでしばらく満足していた。だが急に立ち上がると、ホームズがしたように一粒だけ摘まんで、今度は彼に差し出した。

「やはり駄目です」

「何がだい?」

「だってこれはホームズさんに贈られたものですから、一つくらいは頂いておかなければ。気持ちの込められたものを、贈られた本人が口にしないのは如何なものでしょう」

「もらったものを僕がどうしようと自由だと思うがね」

ホームズはしかめっ面をして譲らなかった。

「それでは、私にも当てはまります。ホームズさんに食べてほしいのです」

彼女は半ば押し付けるように、ホームズの唇へとそれを近づけた。小さなボールの形をして、白砂糖をまぶしてあるそれはトリュフである。気分を悪くした彼がどんな反応を返すのかとはらはらしていたが、意外にも、そのまま口を開けてぱくりと食べてしまったので、ふたりの奇妙で可愛らしいやりとりが私の目に…それどころか脳裏に焼き付いて離れなかった。

「満足かい、お嬢さん?」

「ええとても。ではワトソンさんもどうぞ」

「そのチョコレートは全て種類が違うようだが、いいのかね?」

「はい。美味しいものは共有したいのです。独り占めなんて退屈ですから」

アメリアのはにかんだ微笑みは、それだけでチョコレートを全てとかしてしまいそうなほど温かく、そして私たちを驚かせた。彼女はすぐに表情を元に戻してしまったので、私はこの黒ずんだ小さな塊よりもずっと儚く尊いものに感じたのだった。


- 17 -

[*前へ] [#次へ]

戻る
リゼ