一生を終えるまで謎のままだろうけれど
彼女がこの町にやってきた時のことを、まるで昨日のことのように思い出せる。僕の両親の経営する宿に一歩踏み入れた彼女は、厚手のコートで身をくるみ、真っ白な肌に絵の具で色をつけたような頬をしていた。それはきっと寒さのせいだったから、そうでなければ冬の妖精か何かと勘違いしてしまっていたと思う。
勿論、彼女は一人ではなかった。背の高いひょろりとした男性と、コートの襟を立てていかにも寒そうに肩をすぼめた男性との間に挟まれて、受付のそばに飾られている父の趣味で描いた絵をじっと眺めていたのだ。
正直に言って、僕は彼らに…いや、彼にはあまり良い印象を受けなかった。背の高い方の男性のことである。鋭く素早く、さっと辺りに視線を滑らせて、それは勿論僕の方も通り過ぎていった。外気のように冷たく、無機質で、それでいて暖炉で燃えている炎のような熱を秘めていたから、子供の僕には得体の知れない不気味さだけが植え付けられたのだ。
「ええ、部屋なら一つ空いてますよ」
父が言った。
「ただしベッドは二つだけなのです」
「ああ平気ですとも。約一名分、恐らくベッドは不要ですからね。」
「二名分かもしれないよ、ワトソン」
「どういう意味だい、ホームズ?」
「とにかく、その部屋で結構です。じゃワトソンはアメリアと一緒に先に部屋にいてくれたまえ。僕はまだ用事があるから」
ホームズと呼ばれた男性は軽快な足取りでこの寒さの中、また外に出て行った。けれどワトソンと呼ばれた方の男性は肩を竦めて、彼女…アメリアと一緒に二階へ上がっていった。ちなみにこの時、案内と荷物は僕が任されたが、彼はお医者様らしく、紳士で良い人だった。
翌日、僕が起きて朝食準備の手伝いを始めた頃、ワトソンさんもコートを羽織っていそいそと外に出て行ったのを見た。僕は昨晩からアメリアことが頭から離れず彼女のことばかり気になっていたから、後ろに佇む人の気配を感じて振り返った時に当の本人がいた時は本当にびっくりした。
「お手伝い中ですか?」
「うん、そうだよ。朝ご飯を食べに来たの?あと少しで準備が終わると思うから席について待ってて」
「いえ、私にも何かできることがないかと思いましてお声がけしたのです」
「えっ、君が?」
「はい。それともご両親に聞いた方が良いでしょうか」
あっけに取られた僕の返事を待たずに、アメリアは母にどうしてもと頼んで朝食の準備を手伝ってもらうことになった。その頑固さと言ったら、母曰く「お父さんの絵に対する情熱並み」だったらしい。彼女はしばらく厨房で仕事をしていたが、テーブルが混んで来た時には朝食を運んだり客の注文をとったりもしていた。
「ありがとう。かあさんも喜んでたよ」
客のいなくなったガランとした小さな食堂で、アメリアはサンドイッチとココアを頬張っていた。少しでも多く彼女と話したいと思い、向かい側の椅子に座った。
「いつまでここにいるの?」
「わかりません。一緒に来たお二人の都合次第です。ここに宿をとったのも、恐らく私だけ預けるためだと思いますし。…野宿も寒いのも平気だから、連れていってくれれば良いのに…」
最後の言葉を半ば拗ねたようにつぶやいて、彼女はココアの入ったカップを両手に窓の外を眺めてた。
「早く戻ってくればいいね」
僕は心にもないことを言った。だって、彼らが帰ってくれば彼女は溶けゆく雪のように消えてしまうだろう。
「心遣い感謝します。退屈ですから、もっとお手伝いできることがあればとても有難いのですが、お母様はまだ厨房にいらっしゃるでしょうか」
それから一日、彼女は外の掃除をしたり客の相手をしたりと働き回っていた。けれどあの二人の紳士はいつまで経っても戻っては来ずに、翌日の朝食の時間になってもとうとう帰っては来なかったのだ。
アメリアは昨日のように一生懸命に働いていたが、仕事が落ち着いた時に窓の外をじっと見つめている様子を見ると、忙しくすることで気を紛らわしているのだなということがよくわかった。
「風邪をひくから、中で待っていたら?」
とうとう外の階段に腰掛けて遠くを見つめていたアメリアに言った。
「平気です。ここにいたいのです」
「それじゃ僕も付き合うよ。隣に座ってもいいかい?」
「…では貴方のほうが風邪をひいてしまいますよ。そうなったらご両親の手伝いは誰がするのですか?」
「大丈夫、お客は大分はけたから明日は暇だよ」
「……。やっぱり、中に戻ります。気を遣わせてしまっては申し訳ありませんから。それに、まだ手伝えることが残っているかも」
立ち上がって僕の横を通り過ぎ、アメリアは宿に戻っていってしまった。彼女は意図して、僕や他の人間との前に薄い壁を作ってしまっているように思う。薄くとも、まるで陥落を知らない城壁のような。
それから結局、あの二人が帰って来たのは翌日の朝だった。アメリアはすました顔で階段をおりて来たが、僕は知っている。飼い主を待っていた子犬のように廊下をパタパタ走ってきたことも、彼らが帰って来たのでどれほど安心しているのかも。
「遅かったですよ、お二人とも。私を忘れてほったらかしにするほど楽しい事件だったのでしょうね」
「忘れてなどいなかったよ。拗ねてないで、ほら、よく顔を見せて。いやいやまったく、今回は酷い目にあったんだ」
「なかなかに面白い事件だった。やはりコウモリだったよ、アメリア、あれを重要視するように僕がいったことを覚えているだろうね?」
「ええ勿論。でも連れていってくれませんでしたから、私にはそれを種に仮定することも応用することもできません。退屈を紛らわせるためにどんなに私が苦労したか、すぐに薬に頼ってしまうあなたには想像もつかないでしょうね」
余程腹を立てているらしく、つんと唇を尖らせて2人に背を向けるアメリアは彼らの言葉に耳を貸そうともしない。
「この埋め合わせはしよう。ふむ…シンプソンズのローストビーフでどうかな、王女様?」
「…機嫌を直してあげてよろしくてよ、Mr.ホームズ、Dr.ワトソン」
「やれやれ。221Bの我が家が恋しいよ。さ、荷物をまとめておいで」
ワトソンさんはそう言って、僕の両親に「ご迷惑をおかけしてすみませんね」うんぬんといった会話を始めて、ホームズさんの方はアメリアの背中を二階へと促した。その時、彼女は少しだけ、星のまたたきのように一瞬だけ、屈託のない無邪気な笑顔を見せた。
ホームズさんには見えていなかったはずなのに、彼は驚いたことに、僕が初め彼に受けた印象とは全く別の表情で、二階へ上がるアメリアの背中を見送っていた。細めた目尻には優しさが溢れて、背中を押した無骨なほっそりとした手からも、ちゃんと愛情が感じられたのだ。
子供ながらに、打ちひしがれた気分だったことを認めよう。僕はこの3日間、彼女の凛とした表情を緩ませることも、気持ちを傾けてもらうことすらもできなかった。けれどあの紳士にはそれができる。そしてアメリアも、彼らには心を許して、特にホームズさんには特別な感情がちらと灯っては消えていったのが見えたのだ。
両親は、懸命に首を振るアメリアへ賃金を握らせて「またおいで」と声をかけた。彼女のおかげで宿は活気づいて、まるで春が来たようだと喜んでいたから、僕は別段不思議にも思わなかった。
またおいで、なんてよく言ったものだ。今日を逃したら、どうせもう二度と会えない。このまま関わりを絶ってしまうのが嫌で、僕は宿を飛び出して後を追い、振り向いた彼女に向かって叫んだ。
「手紙を書いてもいいかな、また君に会いたいんだ」
でも、彼女はただ悲しそうに眉根を寄せて、拒絶を表した。足を止めた両脇の2人と同様に僕を見つめていた。
「ごめんなさい、本当に。でも貴方が悪いわけじゃない。私の勝手な都合なの」
「アメリア、それでも僕は書きたい。君のことが好きなんだ」
でも彼女は、僕の両親にやったように、首を振るだけだった。
「このまま、言わないでほしかった」
尖ったナイフで体を突き刺されたような気分だった。去ってゆく後ろ姿をぼんやりと見送りながら、その時の僕はただただ心臓を抉られたように傷心して家路についたのだが、あれから成長して記憶を辿っている今ならわかる。彼女は、言葉なんかで表現できるような、ありふれた好意なんて望んでいなかった。いつかは壊れるものだと知っていたから。本物と紛い物の区別が、ちゃんと彼女にはできていたのだ。
アメリアは彼らを家族として、自分を大切にしてくれる人としてこれ以上ないほど愛していたはずだ。それでも、ホームズさんのことは特別だったのだと思う。彼女の氷の城は誰にも触れられないし壊せもしないが、それを溶かすことが、あの人にはできた。
だがこうも思うのだ。僕が言葉にしなければ、彼女は友人として僕を受け入れてくれただろうかと。その答えはきっと、一生を終えるまで謎のままだろうけれど。
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