君を除いた、僕たちはね(後)

突然身体を揺り起こされて、時計を見ると夜中の二時を回っていた。

「ワトソン、ワトソン、起きるんだ!なんて大馬鹿ものなんだ、僕は!不安が現実になってしまったよ」

彼は拳銃を忘れないようにと忠告して、さっと部屋を飛び出した。外には屋敷の警備に当たっている二人の警官が待っていて、一緒に屋敷の外へ飛び出すと森の方まで疾風のごとく突っ走っていった。

何が起こっているかさっぱりわからない私に見えてきたのは、塗りつぶしたような暗闇の中に紛れている一人の男と少女たちの影である。

男は屋敷の執事で、依頼人である夫人の娘を後ろから抱き込んでおり、相対しているもう一人の少女、アメリアは左手に箱のようなものを突き出して男に渡そうとしているらしかった。

奴は私たちの姿を見て娘を突き飛ばし逃げ出そうとしたのだが、今度はアメリアの方が執事にしっかり飛びついて離さない。その時、私はあの悪漢が、片腕を振り上げたところを見た。井戸の底のごとき闇の中でも、その手中ナイフが握られていることに気がついてゾッと背筋が凍りついたのを今でも覚えている。

咄嗟に拳銃を構え、私のはなった弾丸はちょうど奴の腕に直撃したらしい。ぽろりとナイフを手放して、アメリアごとその場に倒れこんだ。ナイフの方は、届かないところまでホームズが蹴飛ばしておいて、ステッキを頭上に突きつけた。


アメリアの方はホームズに任せておいて、私はけが人を軽く診察してからわんわんと泣きじゃくる娘の方を宥めることにした。特に致命的な怪我もなく、枯れ木の枝に引っ掛けたと思われる擦り傷があるのみである。

「責任は僕にある」

と、ホームズがいった。

「僕はあいつが悪党だと最初から見抜いていた。警察署へ照会の電報を打って返事を待つことにして、奴がなにも知らぬものと甘く見て、君たちの見張りに警官を少しおくことだけで満足した。僕の驕りだ」

ホームズが伝えようとしていることは、私にもわかっていた。半分は事件を未然に防げなかった自己への憤り、そしてもう半分は、「いいえ」と首を振った彼女へ向けた言葉だったのだ。

「いいえ、ホームズさん。あなたの決定を鈍らせたのは私です。私が心に留めていることを言い出しやすいようにと、あなたが差し伸べてくれた言葉を無駄にして、あの男がしきりに庭にいる私たちを窓から覗いていたことについて、黙っていました。鍵を元に戻せば全て解決すると、高を括っていたのです。あなたの目を塞いだのは私です」

両脇から挟まれて、警官に連れられて行く悪党をぼんやり見つめながら、アメリアは淡々と話し続けた。まるで気持ちはここになく、過去や未来に話しかけているような、とても空虚な眼をしている。

彼女はきまって、気持ちが昂ぶっている時に逆らい、感情の無い振りをするのだ。だから私たちには、アメリアが内心でどれだけ自身の無力を嘆いているか、どれだけ自身を罵っているかよくわかっていた。

「それでも君は、まだ僕に黙っていることがあるね」

「いいえ」

「いや、もうたくさんだ。確かに僕は今回のことで間抜けを晒したが、それほどまで君に馬鹿にされる筋合いはないよ。君はいつだって自分以外の誰かに罰して欲しがっているくせに、誰にもわかるはずなどないと頭の悪い奴らを嘲っている。肝要な心は隠すくせに、都合がよすぎるとは思わないかい?それとも他の平凡な奴らと同じように、僕が、…いいや、『僕たち』が、気づいていないとでも?」

「仰りたいことは承知しました。けれどもそれを口にしたところで、一体どんな魔法が起こるのです?いいえ、私はそんなこと、望んでいません。今のまま…何も変わらぬ毎日があればいいのです」

するとホームズは、先の言葉とは打ってかわって穏やかな口調で言った。

「何も変わらないよ、アメリア。君を除いた、僕たちはね」

死人のような瞳が急に色づき、アメリアはホームズを見上げていた。それは深い霧が晴れた後、新緑の葉から零れる朝露のようにしっとりと揺れている。

すると、今度彼は私の方を向いて

「すまないが、先にその少女を両親の元へ送り届けてくれないか?」

私は未だ泣きやまぬ娘を背負ってその通りにひとり森の中を歩き出した。途中心配になり一度だけ振り返ると、ホームズの外套を掴み、顔をうずめたまますすり泣くアメリアの姿が見えた。私に気がついたホームズは、そっと唇に指を押し当てた。彼独特の優しさに、きっと彼女は大いに救われたことだろう。




その後の記憶は曖昧だが、走り書きしたノートの切れ端が見つかったので簡単に記しておこう。

どうやら執事は、鍵を娘が持ち出したことを知っていたらしい。その後ことの重大さを理解するに至り、泥棒の仕業ということにしておいて書庫の中から価値のあるものをすっかり盗んでしまうことを思いついたのだ。鍵さえ手に入ればあとは好きな時に開けてゆっくりことを運べばいいし、娘を殺してしまったとしても、それは存在しない泥棒が罪を被ってくれる。実に卑劣極まりない計画である。

「子供は大人の思うような子供でなければ愛されません。だから私も私でなければ好いてもらえないという想いが、いつでも根底にあったのです」

アメリアは私に、あの時の自分の気持ちを少しずつ、たどたどしく語ってくれた。

「現に、私はこれまで何度か路頭にさまよい、数回ほど別人の間を渡り歩きました。だから私がお二人の知っている私でなければ、たちまち気持ちが冷めて見捨てられてしまうのではないかと、心のどこかではいつも恐れていました。…でも、これからはできるだけ、気持ちを偽るのは止めにしようと思います。お二人なら、それも許してくれるのでしょうから」

ところで、あの日救われたもうひとりの少女の方だが、アメリアが進んで自分をかばって、自分だけでも助けようとしてくれたとしきりに感謝しているにも関わらず、当の本人はなに一つ感謝されることなどないと頑として受け入れようとはしなかった。

ただし、今でも、あの娘からはアメリア宛の手紙が届く。きっとふたりは友人として、末長く付き合いのあることだろう。

- 11 -

[*前へ] [#次へ]

戻る
リゼ