プロローグ(前)

シャーロック・ホームズの類稀なる頭脳が織りなす綿密な計画にも、時には狂いがある。熱心な私の読者諸君であれば「ボヘミアの醜聞」を思い出す者もいるかもしれないが、女性が関わっている以外に共通点がないことは先に記述しておくことにする。

あれは霧を刻む雨が止まぬ朝の出来事であった。ロンドンから離れた田舎町にてパブを営む依頼人の男は、ひとつの奇異な事件を持ち込んできた。「娘のアメリアが消えた」と震えた声で顛末を語るその狼狽ぶりは、少女の失踪よりも先に彼の体調に不安を覚えた程だ。

依頼の内容はごく明快な誘拐事件である。ただし、差出人不明の脅迫文はご丁寧に封筒へ入れられてはいるものの、切手や消印はなく、郵便局を介さずに依頼人の手に渡ったことを示している。

奇妙なのはその文面である、とホームズは指摘した。そして彼はおもむろに椅子から立ち上がり、山積みになっている過去の事件資料から一枚の手紙を引っ張り出した。以前彼が解決した誘拐事件で実際に届いたものだというが、奇妙なことに、それとこの誘拐事件の脅迫文は全くもって瓜二つであったのだ!

「ふむ、見たまえワトソン。このeの字が左に傾いているところなんか非常に特徴的なのに、全く同じ筆跡だ。似せている、という言葉を使うには生ぬるすぎると思わないかい」

「同じ犯人が書いたものということだろうか?」

「いいやあり得ない。僕の持っているオリジナルを書いた人物は、投獄されてから既に死亡している」

興味深い、と彼は細い指を付き合わせた。だがこれ以上、余計な文章を挟んで時間を無駄に費やすことはやめておこう。いま私が述べたいのは彼の人生を大きく変える出来事が起こったということである。

この事件は非常にホームズの興味を惹き、彼を現場へと駆りたてた。いつものごとく、ホームズの冴え渡る推理は着実に真実へと歩を進め少女の居場所を突き止めたが、私はまず彼女の容姿の美しさに驚いた。歳は15、6程であろうか。銀にも似たブロンドの柔らかい髪は光に当たれば燦燦と輝き、伸びきった前髪からは広大な海を思わせる澄んだ瞳がのぞいていた。儚げに白い肌は東洋の神秘的な陶器のように美しい。ただし、青白いほおには赤みがさしておらず、色素を失った唇は怯え切って震えていた。

「私はシャーロック・ホームズ。君はアメリアだね?」

こちらの呼びかけに、彼女は答えない。閑散とした物置小屋の角で、膝を抱えているのみだ。

「安心して欲しい、私たちは味方だ。君を売り飛ばそうとしている男はここにはいない。今から私が君の失踪の経緯を最初から説明するから、間違えていたり不足している点があれば遠慮なく付け加えてくれて構わない。そうすれば、すべて上手く解決してあげよう」

ホームズの声にはどんな人間の心をも穏やかにする魔力が備わっている
のだが、この可哀想な少女も例外ではなかった。肩の力を緩め、私たちを交互に見比べながら一度だけ頷いた。

「なんてことだ!君はあの依頼人の男が、自分の娘を人身売買にかけようとしているというのかい?」

「そうさ。まあ君も一緒に聞いていたまえ。まず初めに、あの悪党が自身を不法に売り渡そうとしていることをアメリアは知っていた。勿論二人は親子でもなんでもない。あの男の作り話であることは、僕には最初からわかっていたのだ。あの誘拐を仄めかす手紙は、アメリアが自分で書いたのだ。」

「けどホームズ、この少女のが誘拐事件を自演したとしてなんの意味があるんだい?」

「勿論、彼女は知って欲しかったのだ。要するにあの手紙は依頼人ではなく、私に宛てたものだった。男は君の本を愛読していたから、私を頼りこの手紙を届けるとアメリアは推測した。かくしてそれは見事に的中したというわけだ」

「ではあの男がひどく焦っていたのは」

「見ての通り美しい少女なのだから、すぐに買い手がついただろう。なのに商品がいなくなったとなれば、慌ててパニックに陥ったとしても不思議じゃない」

「だがホームズ、あの手紙はどう説明するんだ。君が以前に解決した事件の脅迫文とアメリアには一体どんな関係があるんだい?」

「それが大有りなのさ。この少女は手紙を『一目』見たことがあった。犯罪者である実の父親が書いた、その脅迫文をね」

ホームズは淡々と語ったが、なんと哀れな話だろう。現在に至るまで、彼女はどんな人生を…どんな人物の間を渡り歩いてきたのか、私には想像もつかないことであった。アメリアはただ頷いただけで、他には何も口にすらしなかった。
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