イヴに林檎


透き通る空気に柔らかい風。空は霞むような水色で天を覆い、ひっそりと咲く花々がその世界に彩りをそえていた。

「楽園ってこんな場所なのかな」

隣に座る彼女がポツリと呟やいた。ともすれば沈んでしまいそうな言葉を掬い上げ、

「旧約聖書ですか?」

そう聞くと、クロームはこくりとうなずいた。最近図書館に通いつめているのは知っていたが、そのようなものを読んでいるとは意外だった。

「あるんだとしたら、きっとこんな場所だと思うの」

呼応するかのように、穏やかな風がふわりと僕等を通り過ぎてゆく。遅れて木々に繁る青葉がざわめいた。ぼんやりと遠くを見つめる彼女の意識をこちらに向かせたくて、

「ここがエデンなら、僕たちはアダムとイヴといったところでしょうか」

などと言ってみた。きょとんとした表情のあと、ハッとしたようにこちらを振り向き、少女は顔を朱に染めあげていく。きっとこの精神世界に思ったことを素直に言っただけで、他意はなかったのだろう。

(まあ、わかってて言ったわけですが)

恥ずかしさのあまり俯いてしまった彼女はとても愛らしかったけれど、いっこうに顔を上げないのでさすがにやりすぎたかと顔を寄せてみる。
甘やかな匂いが僕を誘うように香った。

「…さま…は」
聞き逃してしまいそうな小さな声が、耳に届く。

「骸様は…神さま、です。」

ひどく純粋な瞳と目が合った。彼女を印象付ける紫紺は真っすぐ過ぎる感情を湛え、僕を射抜く。
しかし、それも一瞬のことで視線はすぐに地面へと落とされてしまった。
(おやおや)
瞳と同じ色の髪からのぞく耳は紅く、それこそ熟れた林檎のように染まっている。

(…神様、ですか)

囲われた世界の中で、孤独を孤独とも知らなかった少女。
枯れようとする命に手を差しのべて、存在理由を与え居場所を与え、名前を与えた。
まるで生まれ直すかのように、色づいてゆく彼女はまだ知らないだろう。
自分は救われたのではなく、


堕とされたのだということに。


(凪、僕には君が必要です)
思惑通りに僕の手を取った愚かな少女。


甘い甘い果実は毒を孕み赤く滴る。


神様、それよりも――
イヴに禁断の実をたべるよう囁いた――


「骸様?」

まだ紅みの残る顔が、心配そうにこちらをのぞきこんでいた。

「クフフ…何でもありませんよ。可愛い僕のクローム」

そう言って頬に触れてやれば、くすぐったそうに、しかし嬉しそうに目を閉じる。
仮面の下の素顔に今はまだ、気付かれるわけにはいかない。優しげな笑みを張り付けながら頭の片隅では怜悧な計算が働いた。

手の平を滑るなめらかな肌の感触が心地いい。

(…矛盾ですね)

演技であるはずの行為に、もっと触れたいと熱情が混じり奥底で火が灯る。
甘く蝕んでゆく毒に気が付いたときにはもう手遅れだった。

頬をすり寄せる彼女から伝わるのは“神様”への盲目的な信頼。満たされる温もりに胸が締め付けられるように痛んだ。






ああ、―
君はいつか気付くのでしょうか。
ここは偽りの箱庭で、
僕はアダムでも
ましてや神様などではないということに。




イヴ 林 檎 




――僕はそれを望んで、
同時に恐れてもいるのです。









*あとがき*→



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