mellow rain
雨は嫌いだ。
右目に疼くような痛みを感じて、目を閉じたままその部分をなぞる。既に傷跡も残っていないこの場所が痛むのは決まって雨の日のことだ。
眠りの淵から引き戻されてしまった意識を外に向けると、案の定湿った空気と雨音が窓の隙間から流れ込んで寝室の温度を下げていた。
少しでも痛みを逃がそうと小さく息を吐くが、あまり効果をなさないことも知っていたので自然と眉間に皺がよる。
「…ん…骸さま?」
「すみません。起こしてしまいましたか」
隣で眠っていたクロームが右目を覆っている僕を見て、心配そうに表情を歪ませた。
「目…痛むの?」
ずくん。視神経に直接響く鈍い痛み。
普段は当たり前のように馴染んでいるのに、こんな日は別物であると主張する。
「今、痛み止めか何か…」
「…いえ、大丈夫です。それより気を紛らわせたいので、少し話に付き合ってもらえますか?」
上半身を起こしたクロームは、話題を探すように僅かの間逡巡してから躊躇いがちに口を開いた。
「昨日…誕生日だったと聞きました」
思ってもみなかった話題に一瞬返答が遅れる。既に12時を回っているが、昼間彼女が僕に何か言いたそうにしていたのはこのことか。
「……誰に?」
「千種から」
目が…痛い。爪を立てて掻き出してしまいたくなる。
「あの」
知らぬ間に険しい顔になっていたらしい。まずいことを言っただろうかと、おろおろとするクロームにむかって何でもないような表情を取り繕う。
「別に、適当に決めたものですから」
昔、犬と千種と。
決してその日を祝うなんてことはしなかったのだけれど。
では祝うことのない誕生日を何故決めたのだろう。理由は忘れてしまった。
ずくんずくんと、古傷が苦鳴を漏らす。痛みには慣れているはずなのに、思考力を沈殿させていく。
「クローム」
だから
「…僕は、この右目を持つ以前のことをはっきりと覚えていないんです」
だから、こんならしくもない話をしてしまうのはきっとこの痛みのせいだ。
「六道眼を埋め込まれて輪廻の記憶を持って生まれたのが“六道骸”だとして、それ以前の僕が何を考えてどんなことを思っていたのかよく思い出せない…。おかしいですよね。自分であることには変わりないのに、別の人間のように感じるんです。だから誕生日なんてものは僕にとって他人事なんですよ」
両眼の青い少年と歪な紅い目をした僕は、同じであって同じではない。
例えるなら十年前の自分と現在の自分の考え方が異なるように、記憶と経験に積み重ねで人格は構成される。普通であれば長い時間を掛けて変わっていくものを、一瞬で膨大な過去の情報を取り込んだ。
気が付けば心にあったのはマフィアへの絶望と諦念と、それでも湧きあがる復讐心。
あまりにはっきりとした意思が頭の中を占める代わりに、わからなくなる。
それ以前僕は何を考えていた?どんな風だった?
あの日から背を向けている少年は答えない。
「……っ!」
ずくん!強くなった痛みに反射的に瞼の上に爪を立ててしまった。
このまま抉り出してしまおうか。馬鹿げた衝動が起って肌に立てたままの爪を、小さな手がそっと外してくれた。そのまま柔らかい唇の感触が瞼に触れて、瞼に口づけられたのだと鈍くなった頭でぼんやりと理解する。
「クローム…?」
「 … …… … 」
ふっと耳朶を擽る。甘いような切ないような、そんな曲。よくオルゴールに使われているのを耳にしたが題名は知らない。澄んだソプラノでハミングするクロームは一定のリズムで僕の肩を叩きながら、困ったように微笑んだ。
「子守唄は知らないから…」
子供じゃありませんよ。と言いかけるが、なんとなく大人しくされるがままになる。
不思議なことにあれほど苛んでいた痛みが歌声に攫われて波のように引いていた。
ふとメロディーラインが止み、雨の音に掻き消えてしまいそうなくらいの小さな言葉が僕の耳に届く。
この世界に自分と血のつながった人間がいたとして、それについて今まで深く考えたことはない。
憎しみも悲しみも、ましてや懐古などという感情は青い右目を抉られた瞬間から壁を隔てた遠い世界のものになってしまった。
ただ…僕をこの世界に産み落とした人へ。
歌詞のない子守唄を口ずさんでいる彼女の「おめでとうございます」に、ありがとうと素直に返せるくらいには、きっと感謝しているんだろう。
mellow rain
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2011骸誕
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