創建された951年頃、京では疫病が蔓延していた。
六波羅蜜寺付近は平安の昔、山麓にかけて「鳥辺野(鳥部野)(とりべの)」といわる亡くなった人を送る葬送の地だった。死者の霊魂を冥界へ引導を渡す入り口と言われ、この世とあの世の境目とされ「六道の辻」とも呼ばれていた。庶民たちの死体は放置され、髑髏となり、この辻の向こう(あの世)に転がされていた。

(おびただしい人骨が転がっているため、ここらは「髑髏原」と称され、髑髏が転訛して「六道」や「六原」になったといわれている。)
(江戸初期までは「髑髏町」と呼ばれていたが、轆轤挽職人が多く住む地域だったために、寛永年間(1624−1625)京都所司代・板倉宗重の命により「轆轤町」と変更された。幕府の正式記録に残っている。)

骨を拾い、さまよえる魂を供養したのが六波羅蜜寺創建の空也上人。
「上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められた」という。

(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)

現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行った。
この時をもって西光寺の創建と六波羅蜜寺はしている。

空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。
それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれた。
またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。
名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」とも称したことに由来するとも考えられている。



{六波羅蜜とは}

六+波羅蜜 この世に生かされたまま、仏の境地に至るための六つの修行を指す。布施、持戒、忍辱、精進、禅定(客観的に自分を評価すること)、智慧(真理を見極め、それにより判断・行動ができる能力)

波羅蜜は彼岸(悟りの境地)に達することを指す。 



{なぜこの地に平家一門は暮らしたのか}

六波羅の地を手に入れたのは、清盛の祖父、正盛の時代。珍皇寺領の一角を借り、正盛堂という私邸を建てた。保元・平治の乱後、平氏勢力は急速に力をつけ、平氏一族
郎党の家門を並べ清盛は政権の政庁を置いた。散々物騒な話をしてきたので、まあこの辺に住んでいる人は少なかった。その為に地価が安く、また粟田口、渋谷越を経て東国へ通じる道が近いというのもこの地を選んだ理由らしい。薬子の変以来行われなかった死刑が復活がどうのこうのやった通り、きっと恐くなかったんだろうね。私なら絶対嫌だ。平氏滅亡の戦火によって六波羅も炎上消失し、平氏の遺跡はあんまり残っていない。残念。



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