「本当に何から何まですいません。見ず知らずの方にここまでして頂いて、どうお礼を言ったらいいのか…………」
ベッドの中で上半身を起こした彼女に温かい飲み物を手渡せば、深々と頭を下げられた。
「いや、いいんだよ。気にしないで」
再び彼女が顔を上げるまでのほんの一瞬、
きっと僕は泣きそうな顔をしていたに違いない。
今日、彼女は恋人であったという事も含め僕の事を全て忘れてしまった。
食材の捕獲に出かけた帰り道、一匹のサソリが彼女の腕に毒針を突き立てた。
膝をついた後、力無く地面に倒れ伏した彼女。そして彼女の名前を叫んで駆け寄った僕。いったいどちらの顔色の方が青かっただろうか。
僕は傷口から毒を吸い出すのと同時に体内でその毒に対しての抗体を作り出した。そして出来上がった抗体を口付けして彼女に飲ませれば、数分も経たないうちに顔色には血の気が戻ってきた。
しかし…………口づけた時に僕の体内にあった毒を送り込んでしまったのか、目を覚ました彼女は「あなたは…………?」と不思議そうな顔をして僕の顔を見上げた。
「僕は…………!」
動揺しつつ口を開き、途中で言葉を止める。
僕はこれからどうしたいんだ?
彼女に全てを説明して、自分の事を思い出してもらって…………
そしてまたいつか、自分の毒で彼女を傷つけるつもりなのか……?
ぐわんぐわんと頭の奥が揺れる。けれども、黙り込んだ僕を心配そうに見上げている彼女を目にするうちに僕は一つの決断を下し、
「…………僕はただの美食家だよ」
そう言って微笑んでみせた。
それから、まだ体の調子が優れない彼女を僕の家へと連れ帰り、しばらく休ませる事にした。
彼女は静かに眠り、途中で何度か目を覚ました。その度に僕は、彼女が「ココさんおはよう」とあくび混じりに笑いかけてくるのではないかと一人で緊張し、そして他人行儀な笑顔を向けられては自分で望んだ事でありながらもひどく落胆した。
そしてまあ、話は今に至る訳で。
用事を済ませて寝室に戻ると、彼女は空になったマグカップをベッド横のテーブルに置いて眠っていた。
「…………」
このまま彼女は元気になって、僕を思い出さないまま日々を重ねていく。そう思うと膝から崩れ落ちて叫びだしたい衝動にかられた。
でも彼女の幸せの為にはこれが一番の方法なんだ。そう言い聞かせ、寝顔を目に焼き付けようと顔を上げる。
いつの間にか、視線は色づいた唇に吸い寄せられていた。
最後に口づけたのが毒の抗体を与えるためだなんて何だか寂しすぎる。そんな事を思ってから僕はベッドへと足を進め、ゆっくり上体を屈めた。
でもやっぱり僕は最後まで臆病だった。
サソリの毒に倒れた彼女の姿を思い出してしまい、どうしても唇に口づけする事ができなかったのだ。
その代わりにと、軽く額に唇を押し当てる。
「…………」
そういえば僕はいつも臆病だったなと小さく笑う。
自分の毒が彼女に害を為すのではないかと怖くて、口づけをねだられても頬や額にする事が多かった。その度に彼女は不満げに唇をとがらせたものだ。
今となってはそんな思い出すら愛おしい。
静かに唇を離し、そして僕は彼女の両目がうっすらと開かれている事に気づいてうろたえた。
「…………!」
眠たそうに両目を瞬かせて、それから僕の顔をじっと見つめて、
それから彼女は取り繕うようにぎこちなく笑う僕の前で不満げに口をへの字にした。
「またそこなの…………?」
いつも額とか頬ばっかり、と言いつつも軽く唇の端を上げる彼女の声もしっかり耳に届かない。
僕は小さく彼女の名前を叫んだ後、その体を思い切り抱きしめていた。
僕の事なんか忘れて関わりを一切断ち切った方が彼女の幸せのためなのに。そう頭の片隅で理解しつつも、両手は優しい温もりを確かめる事を止めようとはしなかった。
END
企画『トリコ夢小説企画』さまに提出。
2012.09.14