「なァー」

「んー?」

「なァってー」

「んー」



薄暗い室内。画面がシーンに合わせて光を変える。なまえは目下映画鑑賞中。床に座って画面を注視するすぐ後ろで、ソファに寝転がる五右ェ門が音声を遮るように声を立てる。だが、ほとんど暖簾に腕押しでなまえはまったく映画に夢中。五右ェ門はそれが面白くない。



「まだ終わらねェのかい」

「うん」

「いつ終わるんだい」

「うーん…」



聞いていても心五右ェ門にあらずで、なまえは応じてくれない。むぐ、と唸って口を曲げると、五右ェ門は流星をその胸に抱いて丸くなった。
映画は着々と進む。五右ェ門には分からない言語が漏れてくる。画面には字幕が踊るが、元より五右ェ門は映画に興味を持っていない。画も音も、無意味だった。意味あるものはその無意味に目を奪われているなまえだけだ。



「あと二時間くらいかな…」



時間を飛び越えて答えを返す。聞き取れる言語が聞き慣れた声色で耳に届いて五右ェ門はパッと反応したが、言葉の意味にしょんぼりする。二時間!あと二時間もまともに相手してもらえないのか!



「途中で切り上げようぜ」

「シッ!今いい所だから…」

「何だヨ…モウッ!」



どたんばたんとわざと音を立てて寝返りを打つと、なまえの肘が飛んできてちょうど脇腹に入る。ウッと呻いて、予想外に喰らってしまったのか、目にうっすらと涙が浮かんでくる。憎まれ口もとっさに出ない有様で、しかし声を立てれば怒られる。五右ェ門は仕方なく大人しくして、見るともなく画面に目をやった。洒落たコートをまとった男女がカフェテリアで雑談する場面であるようだった。女は湯気を立てるカップを、男は汗をかくグラスを供にしている。男の方はどこか浮ついた表情で、女は浮かない表情である。男の上げ調子な物言いに女がスパッと短く返したことに、なまえはくすりと笑った。
五右ェ門は画面の中の女の気分が分かるような気がした。一方は上機嫌で、一方は不機嫌。それでも、面と向かっているだけ己よりは幾分もマシに思える。なまえは今、五右ェ門と面と向かっていない。画面と向かっている。
画面から目をずらすと、存外近くになまえの頭があった。何気なく五右ェ門は手を伸ばす。ぽんと頭に手の平を置くと、淡い香りが立った。いつもなまえから感じる香り、しつこくない甘い香りだ。これはいいと唇を尖らせたことも忘れ、撫でるというよりは叩く要領でぽんぽんと目の前の頭で遊ぶ。一たび叩くごとに鼻を撫でていく香りを堪能していると、突然それが遮られた。なまえがこちらを見ずに、五右ェ門の手を押さえている。自分の頭と細い手の間に大きな五右ェ門の手を挟んでいる。払いのけてしまうことは簡単だったが、五右ェ門はそれをしなかった。それよりも、なまえに何か反応してもらえるとは考えていなかったので、たとえ止めてと押さえつけられたにせよ、構ってもらえたことが喜ばしかった。その喜びが指先まで伝わったのか、むずむずと動き出す。するとなまえは喜びの指先をとらえて自身の指と絡ませた。喜びが手を動かして、力が籠もる。それをなまえは握り返す。
しばらく続いた握っては握り返しだが、前触れもなく終わる。映画の展開がまたなまえを釘付けにしてしまったのだ。あっと驚いてなまえは身体を前に乗り出す。画面が落ち着くと、一息吐いて体勢を戻した。急に自由になってしまった手の、やり場がない。



「ああ、ひやひやした…」

「………」



手が一向に宙ぶらりんなまま、ふらふらと彷徨って、結局再びなまえの頭に戻った。何とはなしに指になまえの髪を巻きつけてみる。くるくると巻きつけて、パッと離す。巻きつけては、離す。試しに、なァとかオイとか呼び掛けてみる。やっぱり、望む答えは返ってこない。
その時、なまえがごくりと息を飲む音が聞こえた。同時に、少しだけ身体が強張る気配も。どうしたかと画面を見やれば、男女が抱擁を、それも挨拶の類ではないものを交わしていた。ある時にはコーヒーを飲んだ唇同士が、何事かを囁きながら求め合っている。男女は次第にもつれ合い、場は激烈になっていく。字幕は愛でいっぱいになった。


「うお、おぉ…」



五右ェ門から感嘆なのか驚愕なのか、言葉にならない声が漏れる。なまえも声こそ上げなかったが、五右ェ門と似たような感覚に陥っている。思いの外長かったシーンが収束して一転する。次の場面では街の片隅での別れ際になっていた。一夜の逢瀬だったのだろう。たった一夜に、男女は愛を注ぎ合った。次に逢う時はあなたと抱き合うことはできない。女は唇を震わせて言った。ほんの一瞬前まで、愛を語った唇は決別を告げる。男は一言、運命だと吐いて女に背を向ける。女もまたその言葉を受け入れるように瞳を閉じて、暗転。女の声が男の名を呼んだ。
ふと、五右ェ門は思う。愛の言葉に種類はあれど、愛を身体で体現することはたったの一種類しかないのだと。人によって差異は生じるかもしれない。だが、コトは簡単な話だ。面倒なのはコトに乗っかってくる機微。更に厄介なのは、愛の行為と呼ばれるコトに愛が関わらない場合もあること。よーく知った男に一人、その事象を見ることができる。五右ェ門には慣れた光景だった。だけに、熟慮したことはない。難儀なモノだと思う。
本当にコトだけならばお茶の子なのだ。やろうと思えば今の瞬間にだってここで出来てしまう。だが、必ず、感情が伴う。その時にはなくても、後々いずれかには。



「なまえ」

「うーん?」

「オレぁ…」

「んー?」

「なまえー」

「ん、よしよし」



面倒なことは抜きにしたい。
五右ェ門はソファに寝転がったまま、座るなまえに腕を回した。香りへ鼻を寄せる。香りの奥から、なまえ本来の匂いがした。気持ちが和らいでいく。何よりこれだろうと考えるより早く感じた。
なまえが回した腕をあやすように叩いた。それからその腕に頭を預ける。決して滑らかな肌触りではない腕だが、そんなことは屁でもない。
映画の終わりが近い。




「んー、中々良かった!五右ェ門?」



画面がエンドロールを流す。満足気な顔で足を床に投げ出したなまえは、ようやく五右ェ門に取り掛かる。少し前から後ろがやけに静かだった。



「五右ェ門、寝ちゃった?」



立場逆転のようだ。うんともすんとも言わない五右ェ門に、今度はなまえが声を掛ける。腕は相変わらず回されたままで、何だか力が入っている。



「おーい、五右ェ門…んっ」



突如、回された腕が尋常ならざる力を籠める。予期せぬ力に一瞬間抵抗を忘れたなまえは、首でその力を受けてしまう。あっと息が詰まって慌ててなまえの腕が機能する。叩いて叩いて、始まった時と同じように突如終わる。
ふぅと安堵の息を吐いて、力の緩んだ腕を退けて五右ェ門の方に向き直る。



「五右ェ門!」

「ン…アレッ」

「ああ、絞められちゃうかと思った…」



五右ェ門は初めて見たというような目でなまえと顔を合わせた。念願の面と向かう形になったが、五右ェ門は目をパチクリさせている。



「起きてたの?」

「うン、チョット寝てた」

「本当は起きて見てたんじゃないの?映画の真似をしたのかと思っちゃった」

「何の真似だっていうんだ」

「映画のラストだよ。見てないなら、あえて言うこともないかな…」

「教えろヨ、気になるダロ」



なまえが言うにはこうだ。
男女は敵同士になり、男の方のグループが女のグループを壊滅させる。男は女の最期の時に歩み寄りこう言う。お前の後にいく。男はその手で女にトドメをさす。そして男が壊滅したアジトから去ってゆく後姿で締めくくられる。



「じゃあ、ソイツは約束を守らなかったッてェことになるな」

「それかはじめから守るつもりはなくて、背負うことにしたのかもね。解釈は見る人に委ねているのかも」



そんな形もあるのかと五右ェ門は知る。しかしそれが五右ェ門自身の手で実現されることは、ついぞない。




リゼ