旅立つのは俺の方だが、餞別に朝餉と夕餉は俺が拵えた。美味い美味いと嬉しそうに食うモンだから、悪ぃ気はしねぇ。もう見る事もねぇなら最後くれぇは良い顔を、と思ってもバチは当たるまい。
「小十郎さん、今日は月出てますか」
汗も流して窓辺に座る俺に、何知る事もねぇなまえが呑気に声を掛けてくる。
「…出てるな。見知った形だ」
「あ、もしかして背中の…」
「そうだ。大体そんなモンだな」
「お揃いですね!」
「夜と、か?中々じゃねぇか」
見上げた窓の先、己が背負う月が空に出て俺を見下ろしている。言われるまで陣羽織の月模様を深く考えた事ァなかった。俺の背中を見る者は、月に言及する様な輩ではねぇ。敵か、或いは伊達の荒くれ共か、何れにせよ月に構う暇のねぇ奴等だ。その暇がある奴、こんな泰平の世に生きるアイツだからこそだ。ふりさけみても己が背は見えない。今、改めてなまえと共にいる、いや、いたのだと身をもって知らされた。
アイツが湯殿へ引っ込んでからの月は俺を嗤っている様な気がしたが、気の所為じゃねぇだろう。嗤ってもらった方が寧ろ気が楽だ。
「上がりました〜ふぁぁ…」
湯浴みから戻ったなまえの第一声で、ピンと来た。いよいよだ。コイツが夢に落ちるか否かの刹那、それは俺が帰る時。戸惑ってはならねぇ。俺にこの世での明日はねぇ。ただ、帰るのみ。でなけりゃ俺はこの世も俺の世も失う事になる。これは直感だ。
「何だ、眠そうだな」
「はい…目がくっつきそうです…」
「ハハ…そうか、ならもう寝とけ」
「そうします……小十郎さんはお好きにしてて下さい」
「そうさせてもらう」
有無を言わせねぇ程の睡魔らしい。引き寄せられる様にフラフラと寝具まで寄ると、糸が切れた木偶の如く寝転がって、もう起き上がれねぇと見える。
恐らく明日の朝まで頭がまともに醒める事はねぇだろう。それを見越して、立ち上がる。部屋の死角になる場所に隠しておいた鎧一式、俺がここに来ちまった時身に付けていたモン、そいつに着替える。筒袖に腕を通し、具足を付け、脛当てを当てる。久々に身に付けたそれらは、ズシリと重く感ぜられた。
最後に一旦は置いておいた陣羽織を羽織ろうと持ち上げる、と、なまえが小さく唸った。湯上がりの身体が、開け放った窓からの夜風に当てられて震えていた。それを見兼ねて、なまえが寝る際何時も掛けていた布をバサッと掛けてやる。なまえに触れねぇよう、注意を払ってだ。
「わ…すいません、ありがとうございます…」
「身体は大事にしろよ」
「はあい」
最後まで呆れた奴だ。コイツの今後が多少不安になりながらも、そんな心配は無用なのだと気付く。俺が来る前から、コイツはこうして生きてたんじゃねぇか。俺が世話してやるまでもなく。とんだ自惚れをしたモンだ。
ただ生活は良いとしても、金の面では何と言っても限界があるだろう。ここでの金の価値は良く理解出来ぬままだったが、俺の所為でなまえには負担を掛けちまった事には変わりねぇ。それでなくとも俺は使う気等なかったし、園長殿から頂いた報酬は全て置いていく。園長殿には申し訳ないが、この金を使うべきは俺でなく、なまえだ。
そうだな、何か一筆書き添えておくか。確かまじっくぺんという物が筆代わりになる筈だった。そいつで…。
「ごめんなさい小十郎さん…」
囁くような声色が、耳を打った。その声にハッとして、まじっくぺん探しを止めた。
一筆残すのは止しておこう。ジジ臭ェ字だとか言って、俺の字は読めねぇ様だったな。
「私先に寝ますね…」
「なまえ」
「小十郎さんは、いつ寝てもいいですから…」
「…なまえ」
「あ…電気だけは消しといて下さい…」
別れ等、幾度となく経験してきた。それが死を伴う物であったとしても、竜が翔け上がる明日の為、振り返らず歩み続けて来た。これからも、それは変わらねぇ。
「感謝する、なまえ。」
無意識に手がなまえの頬に伸び掛けて、触れる直前で思い留まる。危うく、全てをパーにしちまう所だった。情けねぇ己を嗤いつつ、壁に立て掛けておいた元凶の「黒龍」を手に持つ。もう、振り返りはしねぇ。
「――――、―…」
背にぶつかった声も振り切って、全ての始まりとなった扉に手を掛ける。この先は、乱世だ。
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