女神のいない天国

あぁ、
現世の人間のいう天国という理想はこんな姿なのだろうか―
尸魂界に住まう死神でありながら、ギンはそんな事を思った。

夏の始まり。
まだ梅雨の気配の残る今時分、池には蓮の花が咲き誇っていた。



暑さでうっすらと浮かぶ汗で張り付く前髪を煩わしく思いながら、ふらふらと目的もなく散歩をしていた。
どんどん上がる気温に、こんな時間に出てきた事を少し後悔していた。

通ったこともない道。
日陰を求め木陰に入った。
甘い香りがした。
少し進むと、池があり、一面に蓮の花が溢れんばかりに咲いていた。

誰が植えたのだろう。
周りはだいぶ荒れているのに、そこだけは異様に明るかった。
まるで蓮の花畑。
植えられたのは、ずいぶん前の事なのかも知れない。

(綺麗やな…。)

まさに盛り時だった。
淡いピンクのグラデーションの花びらが、陽の光に透けている。

(あ…)
糸とんぼが止まっているのが見えた―






子供の頃、こんな景色を見た。
その時は、隣に乱菊がいた…。

「こっちよ!こっち!!」
興奮した様子で自分の腕を引く姿に、ギンはこれから起こる事を予想した。
この時期、この方向…おそらくあの沼だろう。

乱菊と夏を迎えるのは初めてだ。
いつもは何の変鉄もない沼なのだ、見つけた時はさぞ驚いた事だろう。

すっかり忘れていた。
先に教えてあげればよかったかとも思ったが、こんな明るい顔を見れたから逆によかったのかも知れない。

「見て見てギン!凄いでしょ!?」
大きな瞳をこれでもかと見開いてこちらを見上げてくる乱菊に、ギンは頭がくらりとした。
顔が熱いのも、心臓の鼓動が早いのも夏の日差しのせい、
そう思う事にした。

「ほんまや。すごいなぁ〜!乱菊が見つけたん?」
「他に誰がいるのよ。えへへ、びっくりした?」
「うん。こんな近くにあったなんてなぁ。知らんかったわ。」

小さな嘘。
嘘は得意なんだ。

まだ朝も早い。
朝露がキラキラと輝いている。

ギンはそっと沼のふちに近づくと、葉に触れた。

「見てみ?しずくがコロコロして面白いやろ?」
「ほんとだー!なんだか楽しそうだわ。笑ってるみたい。」
そんな風に思った事は無くて、ギンは少し面食らった。
自分の真似をして葉を揺らす乱菊に転がされる透明な球体は、確かに少し楽しそうにも見えた。

「でもさぁ、ギンは何で知ってるのよ、こんな遊び。」
「え?」
「だってここに来るの初めてなんでしょ?」
「ああ…。前、人んちの庭で小さいの見たことあるんよ。」

ほら、嘘は得意なんだ。

「…盗みに入ったの?」
笑顔が曇り、心配気に見つめてくるので、ギンは悲しくなった。

「ちょっとギン!?」
ギンは沼に身を乗り出した。
花に向かって精一杯手を伸ばす。
なかなか届かない。

(あと…あとちょっと…。)
乱菊の笑顔が見たい。
いつだって喜ばせたいのに、ボクのせいで悲しませるなんて嫌だ。

自分の不甲斐なさが悔しくて、ギンはさらに手を伸ばす。

(あ。)
茎が折れた。

花を摘めたのだと思って安心してしまった。
体がぐらりと傾く。

「ギン!!」
落ちていく方向と逆の力に引っ張られた。
気づいた時には、目の前には真っ青な空が広がっていた。

「ギ、ン…!お゛も゛い゛〜〜」
乱菊の声が下から聞こえて、慌てて飛び退く。

「ご、ごめん…。大丈夫やった…?」
「いったー…。もう、ばっっっかじゃないの!?何やってんのよ、危ないじゃない!」
「ほんまごめん…。」

いつも私には気を付けろとか言ってるくせに…なんてブツブツと流れる文句を聞きながら、ギンは左手に残る蓮の花を確認した。

(よかった…!崩れてない。)

「はい、これ。」
「私に…?私にあげたくて、あんな無理したわけ…?はぁ…ほんと馬鹿。怪我でもしたらどうするのよ!」
「ごめ…「もういいわ!聞き飽きた!」

そう言うと乱菊はギンの手から、花を奪い取った。
ひとつため息をつくと、「ありがとう!」と綺麗な顔で微笑んだ。

(あぁ、よかった。キミの笑顔が崩れなくて。)

香りを胸一杯に吸い込み笑う乱菊に、ギンの胸は甘く熱くなる。

「ほら、お姫様みたいじゃない?」
頭に花を乗せ、少し照れる姿は、実に可愛らしかった。

「ほんま、蓮のお姫さんや。」

ギンは少し下がり、蓮沼のほとりにたたずむ乱菊みつめた。

(ああ、これが…)






女神のいない天国を見ながら、ギンはそんな出来事を思い出していた。

「あほくさ…。」

ふっと自嘲して笑うと、踵を返し来た道を帰った。
日差しはもう弱まってきていた。

もうこないであろう事を想いながら感傷に浸る自分が情けなくて、ギンは考える事を止めた。


変わらず美しく風に揺れる蓮の花はそんなギンを見送った。


窪みに溜まっていたしずくがひとつ落ちて、水面に波紋が広がった―
人の心に似ていた。


.
- 15 -
[*前へ] [#次へ]
戻る
リゼ