11


 額に当てられた何かがひんやりとして気持ちいい。黒子はまどろみながら、床を歩く足音、影が差す陰影、何かが置かれる音を追っていた。
 目を開けたいのに黒子の意思通りにはならず、体も水の底にいるかのように重たい。喉を通る息が熱くて、喘ぐように呼吸すると胸の上に大きな何かが乗った。
 ぽんぽん、としながらさすられて、ふと落ち着く。頭も熱くて気持ち悪いのに、その温かさは好きだと思った。

 これは、彼の手だ。
 それだけはわかって、黒子の唇が動く。

「か…がみ、く…」
「黒子?起きたのか」

 まだ目は開かないけれど、ギシッとベッドが動いて火神が座ったのがわかった。手が火神の手に包まれる。

「お前、熱が出てんだよ。さっき計ったら8度こえてる。…悪かったな」
「?」

 何に謝られているのかわからなくて首を傾げる。些細な仕草でも伝わったのだろう、火神の声には後悔がにじんでいた。

「笠松…サンにも怒られた。お前が一番辛かったのに、ってよ」

 そこまで言われても黒子には意味がわからなかった。だからただ握られた手を握り返して、話題を変える。

「ここ…」
「ああ。俺ん家だ。お前、俺の家に泊まるって親に言ってたろ」

 そうだった。呼び出しの時間は夕方より遅くて、一応伝えておいたのだった。
 でもどうして火神がそれを知っているのだろう。そこまで考えて、黒子は己が意識を失う前までのことを思い出し、ハッと身を起こそうとした。

「おい!無茶すんな!」
「…っ」

 背中や腰が軋んだように痛む。背中を支える火神の腕に体を預けて、黒子は衝撃の波が去るまでぎゅっと身を縮こまらせていた。
 汗でべたつく体、それだけでなく、閉じたまぶたの中で三上の指や舌の感触がよみがえって勝手に震える。

「寒いのか」
「ちが…」

 横たえようとする火神にすがりつく。今はこのまま離れないで欲しかった。
 自然と潤んだまぶたがようやく開いて、視界に映る紅い髪と瞳に黒子は安堵する。

「このまま、このままいてくれませんか」
「…ああ」

 こんな風に甘える黒子は珍しい。だが火神は何も言わず、ベッドに上がって黒子を膝に乗せ抱き締めてやった。
 胸に顔を埋めてくる黒子は可愛いが、そうさせる理由に怒りが再燃しそうなのをこらえる。黒子の体には三上のものだろう、強く掴まれた指の跡が残っていた。
 よくも、と今すぐ殴りに行ってやりたくなるが、この黒子を放ってはおけない。
 火神は頭にキスを落とし、背中をゆったりと撫でてやりながら、黒子が落ち着くまで待った。

「…すいません」
「謝んな。もう、大丈夫か」
「はい」

 見上げる黒子の水色に暗い影はない。額や頬、唇に触れるだけのキスとしながら、「体の記憶なら後から幾らでも塗り変えてやっから」と言うと「バカですか」と返ってきたが、その表情には笑みが浮かんでいた。

「お水、もらえませんか」

 話す間にもから咳きをする黒子に、横のサイドテーブルに置いていたペットボトルを渡してやる。開けようにも手が震えていて力が入らないようで、代わりに火神が開けてやった。

「ありがとうございます」

 こくこく、と三分の一くらいまで飲んで、もういいですと返す。それを火神はまたテーブルに置いて黒子を抱え直した。

「火神くん」
「ん?」
「何も言わなくてすいませんでした」

 火神の手が黒子の髪を撫でる。汗で湿ってるのに、と思いながら拒否したくなかった。

「その話は熱が下がってからでいい」
「いえ…、大丈夫ですから、今言わせてください」

 改めて、目を見ながらではまた言えなくなる。頑固な性格を知っている火神は、わかった、と言って腕の中の黒子ごとベッドに横たわった。
 聞く姿勢になった火神に、黒子は唇を湿らせる。何から話そうかと考えたが、結局一番話さなければならない事からに決めた。

「僕のバスケは、今年のウィンターカップが最後です」
「――――どういう、事だ」

 己を包む体がこわばったのを感じる。肩を掴まれて、正面から目を合わされそうになるのを、彼の胸に深く顔を埋めることで阻止した。
 お願いですから、と訴える。

「黒子!」
「――お願いですから、このまま聞いてください…!」

 その声に含まれる悲痛なものを感じてか、火神はまた頭を枕に落とした。それにホッとして黒子はまた話を続ける。

「違和感は、今年の春からあったんです」













 ――始めは二年生に上がってすぐの頃だった。痛みやダルさがあるわけじゃない、ただある一定の調子から上がらなくなっただけで。
 これまで、調子の良い悪い波ならいくらでもあったし越えてきた。なのに、その頃から黒子の体は調子が悪いくらいのレベルから変わらなくなったのだ。
 それはリコも気付いていたらしいが、彼女は自分からは言わなかった。いや、言えなかったのだろうと思う。
 黒子が自身の体について聞いた時、全てを見通す目のせいでわかっていたが答えが残酷なものだから話せなかったのだと言った。


『…間違ってないわ。黒子くんの身体はもう…』
『限界…ですか』
『ううん。もうとっくに越えてる。もともとギリギリでやってきて、去年一年で更に酷使したから…』
『しばらく休んだとしても、無理ですか』
『……はっきりとはいえないけど、たぶん…』

 ごめんね、と謝るリコに首を振る。ここまでやれたのはリコのおかげでもあるし、何より自分の意思で決めてきたのだ。何も後悔はない。
 ただ、火神の影でいられなくなる事が残念だけれど。


『わかりました。ですが、今年はこのままやらせてください』
『黒子くん』
『お願いします』
『…わかったわ。みんなには、どうする?』
『みんなには……』
















「みんなには言わないでくださいとお願いしました。もう変えられない事なら、最後まで気を使われずやりたかったんです」

 話しながら、黒子はあの時のリコがどんな表情だったのか思い出せない事に気付いた。きっと今の黒子と同じだったのかもしれないと思うと胸が痛む。

「なんで俺にも言わなかった」
「気を…」
「そうじゃねぇ!」

 ぐっと肩を掴まれて、仰向けにされる。嫌だと首を振って離される胸にすがったが、頬を包まれて強引に目を合わせられた。

「一人で悩んでんじゃねぇよ!お前にとって俺は、バスケだけのパートナーだっていうのかよ!」
「―――」

 黒子は目を見開く。見下ろす火神の顔は苦しげで、こんな顔をさせたくなかったのにと唇をかみ締めた。

「確かに!バスケのおかげでお前と会えた!だけどな…!」

 頬を包む手が肌を撫でる。その仕草に、黒子は自身が泣いているのだと知った。

「俺とお前の関係は、もうバスケだけじゃねぇだろ!」
「……っ」

 ふ、と唇が震える。黒子の顔がくしゃくしゃに歪んだ。

「かげ、じゃなくても、いいですか」
「おう。別にいつまでも影でいなくたっていいんじゃねーの」
「いまより、ずっとずっと…ヘタになります、けど…たまには、バスケしてください」
「幾らでも付き合ってやるよ」
「かがみ、くん」

 あふれる涙を火神が拭う。黒子の手が上がって、火神の潤んだものにそっと触れた。

 本当は、悔しかった。火神のようにキセキのように、これからも成長していける強い体が己にもあったなら。
 怪我ならば治してリハビリをするなり、可能性がある。だがいま以上に頑張っても体そのものが無理だ、と言われたらどうにもならない。
 黒子にとってバスケは、自分を表現する唯一のものといっていい。それを失っても火神の傍にいられるのかと、それがずっと怖かった。

「だから、一人でも…ってか?相変わらず極端ってーか、悪い意味で思い切りがいいっていうか」

 バカだな、と今度は自分が言われてしまったが、黒子は反論出来なかった。

「これで離れられたら俺の立場がねぇだろ。いいか」

 真剣な瞳の火神と唇が重なって。

「俺はお前が好きだから、ずっと何があっても一緒にいる。忘れんな」
「―――っ…はい」

 それ以外の答えを、黒子は持たなかった。

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