6(完)
『氷室っちにも気をつけてあげたほうがいいっスよ!』
「…遅いよー、黄瀬ちん」
紫原は白いベッドにもたれながら床下に座り、黄瀬から来たメールを読んで一言呟いた。
首を延ばして後ろのベッドを振り返る。そこには目を閉じて氷室が横たわっている。
今日の昼休みに旧校舎の階段から落ちて病院に運ばれ、検査に異常ないからと帰ってきて、先ほど眠ったところだった。
「……あーあ」
Tシャツの襟を軽く引っ張ると、そこから見える固定の為の包帯に紫原は顔をしかめる。熱を持っているからと保健医に渡された氷が乗せられ、ようやく痛みが引いて氷室は浅い眠りにつけていた。
今は夜の2時。紫原は寮の先生にわがままという形で居座って、ずっと氷室の傍にいた。大人がいない間に、落ちる前、階段で何があったのか聞くのも忘れずに。
氷室は教師達には自分の不注意としか話さなかったが、近くにいたバスケ部員から紫原は目撃した話を聞いていた。
――1年のあいつともめてたぜ。あと、女子も他に何人かいたな――
あいつとは、紫原にも心当たりのある後輩だった。ポジションが同じセンターで氷室に何かと懐き、寮生でもあるせいでよく二人に付きまとっていた。
もっとも、付きまとうというのは紫原からの視点で、氷室は後輩の一人という態度で快く接していたように思う。
だが、その後輩ともめていたというなら、何かのはずみで氷室が落ちたのか、それとも――
『…本当に俺が足を踏み外しただけだよ』
始めは聞いても氷室は紫原にも言おうとはしなかった。紫原はそれにまずいらついた。
氷室が怪我人だと覚えていたから手は出なかったが、そうでなければ肩でも掴んで強引に聞き出そうとしていたかもしれない。
でもそれが無理となると、紫原には赤司のように上手く誘導したり、緑間のように理論詰めにして話させる手段も無い。だったら、出来ることはお願いするしかなかった。
『室ちん、教えてよ。誰が室ちん落としたの』
『落とされたわけじゃない』
『あいつもいたって聞いた。他に女子もいだって。だいたい、なんであんなとこにいたの』
氷室達がいた旧校舎とは、その名の通り古い建物で、今は美術の時間や文科系のクラブが利用するくらいで、まして昼休みに行くところではない。
氷室が話を聞いた部員も、4時間目の美術の忘れ物を取りに戻って目撃したという。ならばなぜ、氷室はそんな場所にいたのか。
『呼び出されたんじゃないの』
『……』
『ねぇ、室ちん。俺怒ってるんだけど』
次に何かきたら教えてって言ってたよね?と詰め寄れば、氷室は反対側に顔を向けた。無言の拒否に紫原は目を細める。
腹は立っていた。それもすごく。こんな怪我までしてるのに、氷室はまるで犯人を庇うみたいに何も言おうとしないし、紫原には関係ないとでも言いたいのか。
それでも、首元まで見える包帯を見ていたら怒る気力は失せていった。代わりに傷ついた側に手を握り、ベッドにぽすっと額を埋める。
『…敦?』
『あーもー、心臓に悪いから怪我なんかしないでよ。すっげドキドキしたし』
『あつ…』
『今でもめっちゃ痛いんでしょ。でもそれくらいで済んで良かったじゃん。死んでたらどうすんの。それくらいなら、俺が殺すよ』
『――なんでそうなるんだ…』
紫原が顔を上げると、氷室はこちらを向いて苦笑を浮かべていた。
『決まってるじゃん。他の誰かに殺させるくらいなら、俺が殺すよ』
当たり前でしょ、と言う紫原は他に誰かが聞いていたら呆れていただろうが、氷室はそうではなかった。むしろ嬉しげな表情をしている。
そこで紫原はもう一度聞いた。
『で、教えてよ。何があったの』
今度こそ目を丸くした氷室は次いで仕方なさそうな笑みを浮かべると、何があったのか話し始める。
確かに後輩に呼び出され、そこに3人の女子がいたのだと。曰く、
――紫原くんから離れて。彼はもっと私達に優しかったのに、貴方と一緒にいるようになって変わったわ。私達が話しかけても無視するようになったし、お菓子を渡しても受け取らなくなった。何より、こ…告白も聞いてくれないのよ。貴方が紫原くんに何か言って、他の人と話させないようにしてるんでしょ!?
『…なにそれ』
『まだ他にも言われたけど、おおむね似たような内容だったな』
氷室が紫原の行動を制限などしたことが無いし、むしろ逆の方が多いくらいだ。紫原は常々、氷室は自分とだけ過ごしていればいいと思っている。
紫原からすればその女子達に優しくした覚えなど一つもないし、お菓子をもらう事はあったが、最近は好みでないものをもらうよりも、氷室がくれたり自分で買った方がいいからもらわなくなっただけで。
とことん勘違いしている女子達に、紫原は嫌いな物を山盛り口に頬張ったような顔をした。
『そんで?1年のあいつは』
『ああ、あの子も元々お前を追いかけて陽泉に来たんだって』
『はぁ?』
『お前と話したくて近づいてたのに相手にされないし、それをたまたま愚痴っていたところで他の子達に言われたらしいよ。俺がお前とあの子を話させないようにしてるって。だから俺ばっかり話してるって』
『……』
さすがに紫原も黙ってしまう。まさかあの1年の狙いが自分だとは思わなかった。
だが、まだ肝心なところを聞けていない。問題はそいつらが氷室を階段から突き落としたのかどうかだ。
先ほども言ったが、もし頭や他でも打ち所が悪かったら。それを思うと絶対に許せない。
『…俺も、悪かったんだ』
それは、つまり押されたのは間違いないということか。結論を急ぐ紫原の手を自分からも握り直し、氷室が続ける。
『わざとじゃ無い。俺がつい言い返して怒らせたせいもある』
『なんて言い返したの』
氷室は一瞬ためらうように沈黙して、目線を下げながら観念したように言った。
――敦の事を何も知らないんだな。俺が言ったところで敦の行動を変えられるはずがないよ。それに、君達は敦が一番好きなお菓子も知らないだろう?俺は、知ってる。それを許された位置にいるんだから――
『――って』
『……』
紫原は思わずカパッと口を開けていた。氷室の頬はほんのりと染まり、だから言いたくなかったんだと小声で付けたす声が聞こえる。
それを聞いてカッとなった女子の一人が、去ろうと階段に差し掛かった氷室を突き飛ばしたのが原因らしい。
それならば確かに教師には言いにくいだろう。紫原にも違った意味で言いたくなかった理由がやっとわかった。
『室ちん、カッコいー』
『止めろ。俺だってここまで言うつもりなかったんだ』
氷室は握っていた手を解くと、仰向いて肩の痛みに眉を寄せる。そろそろ昼間に飲んだ痛み止めが切れかけているのかもしれない。
その時、タイミング良く保健医が部屋に戻ってきた。
教師と入れ替わるようにして氷室の部屋を出た紫原は、廊下の端に青ざめた探していた顔を見つけて近づいた。後輩は死刑宣告でも受ける前のような顔をして、紫原はその前に無言で立つ。
自分よりも15センチほど低い身長をじっと見下ろしてやると、土下座せんばかりに後輩は謝ってきた。怪我をさせるつもりはなかった、本当にすいません、いくつも並んだ謝罪を紫原は聞くとも無く後輩の顔を上げさせる。
「ひっ!」
「室ちんを落とした女はどこにいんの?」
一言聞けば、寮の外にいると答えが返ってきた。自分の口で紫原に事情を説明するといって聞かないのだと。
むしのいいことを言っているが、ならば好都合だと紫原は後輩をその場に残して寮を出る。
「紫原くん!」
すると向こうが紫原の姿を見つけて駆け寄ってきた。その顔に浮かんでいるのは笑顔。
何が可笑しいのだと、その時点で紫原の中でそれまで抑えていた怒りが頂点に達した。
「あのね、私達あの人が紫原くんの邪魔ばっかりしてるから――」
「うるさいなぁ」
「えっ」
邪魔ってなんだ。だから氷室を排除しようとしたとでもいうのか。
とんだ勘違いに怒りも突き抜けて侮蔑に変わる。こんな女達に付き合うのも、もうめんどくさかった。
「もうあんたらどうでもいいや。じゃね」
「ちょ、ちょっと待って!紫原くん、中学の時はそんなこと言わなかったじゃない!だからあの氷室って人が――」
「止めてくれる?あんたらに室ちんの事、言われたくない」
寮の中に戻りかけた紫原は、女子の口から出た氷室の名に振り向いた。だがそれを反対に好機とみたのか、女子はめげずに話し続ける。
「ずっと前からちゃんと忠告してあげたのに!」
「そうよ、それなのに紫原くんと離れないで、帰り道まで一緒でくっ付いてるし!」
「そうそう、だから私達、迷惑だと思って――!」
ここぞとばかりに言い募る女子達は、紫原の表情がだんだん険しくなっていく事に気付いていない。だがそれも、無言で形相を変えた紫原が近づいてくるまでだった。
本当は、こいつらに氷室が与えられた痛みをやり返してやりたい。それをしないのは、単に氷室が望んでいないからだ。
自分達が罵っている相手に救われているのだと欠片も知らない女子達は、紫原の雰囲気に怯えながら尚も都合のいいことばかり並べ立てる。
だがそれも、ここまでだった。
「――うるさいって言ってんだけど」
わかんないかなぁ…?
「「「……!!」」」
2メートル以上の長身から、ただ見下ろされているだけなのに。まさに野生の熊ににらまれているような恐怖を感じて、女子達はガクガクと地面に膝をついた。
いま、何か言えば殺される。そう思わせるような強い怒りにさらされて、下肢を濡らしそうになる。
「わかったら、二度と俺達に近づかないでよ」
紫原は寮の入り口で成り行きを見ていた後輩にも告げて、興味をなくしたようにさっさと氷室の部屋に戻っていった。
紫原は携帯を閉じると、月明かりに照らされている氷室の顔を覗き込む。少し熱が出るかもと言っていたから、そのせいでいつもより反って血色は良く見えた。
「もー…ほんと遅いよ、黄瀬ちん」
また、守れなかった。
バーカ、と黄瀬に責任を転嫁させつつ、紫原は怒りの後で湧き上がった悔しさにグッと唇をかみ締めていた。
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