あの日の君の囁きは確かに
「だーかーらー!ちょっと美容院行ってくるだけ。すぐ戻るってば。」

数ヶ月前、転がり込むようにnameがやって来て一緒に暮らすようになったこの部屋のエントランスから、当のnameが声を上げた。逃げるようにがさがさと靴箱を探る音が続く。

「それにちょっと着いていくと言っているだけだろうが。」

リビングから踏み出したこちらに視線を投げると、少し眉間が寄った。先ほどまでは身に着けていなかった、休日に外出するときにしか羽織らない薄手のジャケットを肩にかけているのを、見咎めたらしい。

「保護者じゃないんだから。リヴァイ、今時中学生でも美容院に付き添いなんていないよ。」

ため息混じりに零しながらそそくさとヒールを引っ掛けるのを邪魔するように、自身のプライベート用の革靴を引っ張り出し、有無を言わさずさっさと突っかける。
一人暮らしにしては広かったこのマンションの一室にしても、そのエントランスは大の大人が二人並べば、意識して距離を取らなければ他人では踏み込まないくらいの近さに密着する。

「俺が傍に居たいからだ。悪いか。」

すぐ近くで向かい合いながら囁くように告げれば、不貞腐れていた目元がさっと赤くなるのが見えた。無意識に親指でその目元を撫ぜると、それが照れだと分かりやすいくらいに視線がうろうろと泳ぐ。



「……リヴァイ…過保護すぎる…、いいけど、なんか……、」



「あ?」



尻すぼみにもごもごと消えていく言葉尻は、もはやnameの口の中で小さく呟かれるだけで聞こえてこない。
わざとらしく聞き返すと、nameは拗ねたように赤い目元のまま横目に睨んできた。


「…っちょっと鬱陶しいくらいって言ったの!」

「…………、」

いーっと歯を見せた後ぷいと横を向いた表情は、本音と相反する言葉を放った罪悪感が僅かににじみ出ていて、ふと、心臓が緩んだ。






緩んだ、のは、それだけが理由ではなく。











「……ああ、…そりゃあ、…本望だな。」


「……………なに、それ。」



くしゃくしゃと頭をかき回せば、むずがりながらも逃げようとはしない。俺が落とした言葉に呆れたような息を漏らすnameを、思わず腕の中に閉じ込めて前髪の上から額に唇を落とした。


「―ほら、もう行かなきゃ!!はーなーしーてー!!!!!!」

もぞもぞと腕の拘束を解き、ドアを勢いよく開け放して振り向いたのは、笑顔だった。
後ろから差す日差しが眩しい。





「ねえ、リヴァイ、何で笑ってるの?」





その光を背に笑んで問いかける姿に、目を細める。












―鬱陶しいくらい…―













ああ、良いんだ。お前は、覚えていなくて、良い。






















**


「お前は、怖くないのか?」

毎度長たらしい幹部会議から引けた自室。
隣り合って座った硬いソファで、nameは眉を顰めた。

「…はあ?怖いに決まってるじゃん。」
「じゃあなぜ、毎回前線部隊に手を挙げる。」

会議が長たらしいのは一刻も早く改善すべき悪習だが、今回の内容は次回壁外調査の新たな配置決めであったから、仕方がない。

「なぜって言われても………、……だって私、兵士だし。生きてるし。……生き抜いてきちゃったし。」

ずるりと身を崩して俯いていた顔が、恐らく無意識に、すっと前を向いた。

「誰かが行かなくちゃいけないでしょ。なら、私でしょ。私が行くの。行かなくちゃいけないの。何でなんてない。それだけ。」

壁外調査を重ねる度、少しずつ熟練兵は確かに減り、そして辛くも生き延びた若い力がその後を継いでいく。
今、前線の先頭に立てる者が他に居るかと問われれば、即答で名の出る者は少ない。もし当人が名乗り出なくても、白羽の矢は必ずnameに立つ。それを理解しているから、だけではない。それは目を見れば分かる。矢が立ったからか、自らの意思か。そこには結果は同じでも、決して同等ではない大きな差がある。

nameの瞳の奥には、殉職していった何人もの上官、後輩、仲間たちが、今もそこに居る。

自分が前線で飛び続けることで、彼らもまたあの空を舞い続けられるのだと、振り絞るように言ったのはいつだったか。






「―怖くない、なんて言ったら、嘘になるけど、」


ぽつり、と静かに光を湛えていた瞳が伏せられる。ただ黙っていれば、それは先を促すことと同意であるのは、二人の間の暗黙の了解だ。

「本当は、もう仲間が食べられるところなんて見たくない、断末魔も聞きたくない、生きてる罪悪感で吐きたくもない、そもそも毎回辛辛過ぎて次はいつ自分かも分からない、………本当は、…本当はね、もうさっさと兵士なんて辞めて、休みの日には優雅にカフェでお茶して、木陰でお昼寝して、のらりくらり過ごしたい、それに…………、」

不意に詰まった声に視線をやると、今度は憮然と床を睨みつける表情が飛び込んできた。

「…………それに?」
「……何でも!とーにかく!!怖くないなんて嘘でも言えませんよ私は!」

ぼそりと促した声に、勢いよく天井を仰ぐ。忙しいやつだ。

「…でも!」
「あ?」
「止めても無駄だからね?」

拗ねたような、それでも毅然とした目。それに、深く一度息を吐いた。

「…それは毎度のことで身に染みてる。」
「…………、」
「……ただ、」
「ん、」
「死ぬな。」






これも毎度のことだ。それでも言わずにはいられない。祈らずにはいられない。
頭を引き寄せ、額に唇を押し付けた。nameはされるがままに、そのまま肩に頬を寄せた。









「…………で、”それに”、何だ?」

先ほど切れた言葉をもう一度掬うと、肩口でnameがくすくすと笑った。

「…まだ気にしてるの?ハゲるよ?」
「エルヴィンじゃねえんだ、そんなんでハゲるか。」

そのまま小さく笑い続ける温もりを、ただ肩口でずっと感じていた。









それでも、なぜなのだろう。なぜか、心にささくれのように残っていた。





nameが冗談めかして吐き出そうとした願いの一端が、頭の片隅で燻ってずっと消えなかった。















***


「―………あー、…や、っば、」
「……………………name、」
「…、ごめ、リヴァイ……、見えな…や、」

抱え上げた、血と泥と涙で塗れたnameの焦点は、どこにも合うことなく虚空を虚ろに見つめていた。
ヒューヒューという、穴から漏れるような細い息が、蒸気に烟る草原に悲しいほどに響いた。
鼻につく鉄の臭いは、nameの、辺りの、血の臭いだ。

撤退の準備を始める周囲の慌しさから、周りだけ膜を張られたように遠ざかっているように感じた。






「……言えよ、」




「………ぇ…?」






「……優雅にカフェで茶飲んで、昼寝して、…………で、…………それで、何だ…?」







耳元に口を寄せて、遠くなる聴覚に注ぐように吐き出した言葉に、ふと、僅かにその表情が緩んだ気がした。






「……ぅ……………い…、」







「…何だ…?」



























―鬱陶しいくらい、リヴァイと一緒に居たい―















「………んなこと、叶えてやる、」

















掠れたその声を、聞いただろうか。
それでも、もう動かないnameは、優しく、笑んでいるように思えた。























*

「……行かないの?」

昼下がりの眩しい光を背に、ドアを押さえたnameが訝しげにこちらを見つめている。

その姿はただきれいで、泥にも、血にも、涙にも、塗れてはいない。


は、と、小さく息が漏れた。
それに、不思議そうにnameが眉を寄せる。






「髪を切ったあとは、お前が気に入ってるカフェに連れてってやる。」

nameの頭を腕で抱え込むようにしながらドアを閉めると、疑わしげな視線がその隙間からこちらを覗き込む。

「その後は、干した布団を入れて昼寝でどうだ?」

視線を合わせるように覗き込み返すと、細めた視線がくしゃりと笑顔に溶けた。
どうやら、そのプランはお気に召したらしい。

「………仕方ないなぁ!!」

満面の笑みのまま、雪崩込むように今度は自らこちらに抱きついてくる重力を、全身で受け止める。
そのまま、もう一度額にそっと唇を寄せた。

小さく息を吐くような笑い声を零して、nameが視線を上げる。








「リヴァイは、本当に私に甘いよね?」







そうして腕を解き、振り返りながら光の中へ駆けていく背中に、ぴくりと僅かに動いた腕をそっとおろした。


その背の先に見えるのは、あの荒野ではない。


























あの日の君の囁きは確かに





「……当たり前だろうが。何だって、俺が叶えてやる。……今度こそ。」





→あとがき
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