何を焦っていたの?
たっぷりとしたオレンジ色が、地平線の向こうへゆらゆらと沈んでいくと、空はそのオレンジと藍色が混ざって行く。
壁のてっぺんに腰掛けて見るこの景色が、私は好きだ。
どこまでも広くて、こんな、壁に囲まれたちっぽけな世界が作り物のように感じる。
例え、一歩踏み出したらそこは巨人たちの巣窟で、命を賭けなくてはいけないとしても、その先にこの壁の意義の崩壊があるなら、何を恐れることがあるだろう。
そう教えてくれた小さな背中が、オレンジの空の向こうに浮かんだ気がした。
その残像に、視界が霞んでオレンジで埋め尽くされる。
腕で目を押さえて、どさりと背中から倒れると、今度は閉じた目の先に藍色の気配がした。
泣きたいのに泣けない。涙の膜は、それ以上雫を溢れさせてこない。
「おい、nameてめえこんな所で何してやがる。」
遠い遠い町からの雑踏を裂いて、すぐ横から聞きなれた不機嫌な声がした。
「すぐ飯の時間だ。いつも先頭を切るてめえが居ないと、うるせえ奴らが何人もいるのは知ってるだろうが。」
目を開けなくても、その眉間の皺がいつも以上に深いことが分かる声。
そして、いつも過保護な調査兵団幹部の面々が思い浮かぶ。彼らが、姿の見えない私を異様に心配しているだろう姿が容易に思い浮かぶ。
思わず、小さく笑ってしまう。
「おい、何笑ってる。」
答えない、答えられない私の腕を、慣れた低い体温の手がぐっと掴むとさっきよりまた藍色が濃くなった空を背景に、私を見下ろすリヴァイが映った。
「…何てツラだ。」
たぶん、泣きそうな顔をしていたからだ。かなり醜い顔に違いない。
「…どうした。」
リヴァイはずるい。不意に優しい声でそんな風に聞かれたら、答えない訳にはいかないではないか。
「…イメトレしてた。」
「…碌な事イメージしてねえツラだな。」
碌な事、ではないかもしれない。
私以外には。
私にとっては碌な事だ。だから、夕飯の前なんかにこんな所までわざわざ来て、空想を走らせていた。
夕飯の前なんかにこんな所で私を探し当ててしまうリヴァイもリヴァイだな、なんて思う。
「何を。」
短く投げられた問いは、またやり過ごすことは許さない響きを持っていた。
答えたら、きっと呆れた顔をされたり、罵倒されたり、もしかしたら優しく抱き締められたりするのかもしれない。
どれも嫌で、どれも魅力的ではあった。
何にしても、答えないわけにはいかない。
「…リヴァイが、いなくなってしまったら、私はどうなってしまうのかなって。」
すっかり深い藍色に染まってきた高い高い空を見つめながら、零す。
言葉に出してしまったら、心臓がぎゅっとした。
少しの沈黙、そして小さなため息、それから隣に腰をおろす気配。
「…最近変だったのは、それか。」
優しい声での問いかけ。
リヴァイが選んだのはそれだった。ああ、これも嫌だし、とても魅力的だ。
「変、だったかな。」
「普段以上に上の空な上に、気付けば何か悩んでるような顔しやがって。」
「うわ、バレバレだね。」
はは、と笑い声をあげると、斜め上からリヴァイがじっと見つめている気配がした。その目は、まだ、見れない。
「それで、」
「え?」
「それで、どうなってしまうことになったんだ。イメトレの結果は。」
そこまで吐き出させられるのか。分かってはいたけども。
こんなところをリヴァイに見つかって、最後まで話さないなんて選択肢は与えられないのだった。
「想像、出来なかった。」
ああ?と、不機嫌そうに聞き返す声がした。
「リヴァイが、例えば死んでしまうなんて、リアルに想像出来なかった。だって、人類最強が死ぬなんて、全然現実的じゃないんだもん。
だから、きっと立ち上がれないくらいに泣くんだろうなぁって思ってたけど、泣けなかった。」
でも、と続けると、また視界がゆらりと霞んだ。しかし、それはやはり溢れてはこない。
「でも、すごい苦しい。リヴァイが、そばに居ないなんて、無理。」
初めて視線を空からリヴァイに投げると、リヴァイはまだじっとこちらを見つめていて、潤んだ目が直に交わってしまった。
もう、その顔には暗闇がかかっていて、こちらはちゃんと見えてしないかもしれないけれど、リヴァイの瞳が少し揺れた気がしたから、きっと見えてる。
「私がこうやって腕を伸ばした時に、そこにリヴァイが居て、触れられる、それだけでいいんだ。」
それだけで、私は強く生きられる。
それだけで、私はこの壁の外に希望を見出し続けられる。
その全ては、リヴァイなしには何の意味も持たない。
壁にだらりとおろしていた左腕を僅かにリヴァイに伸ばすと、リヴァイは私の手を取って指を絡ませてくれた。
この、体温があれば、私は強くあれる。思わず、自分が微笑むのが分かった。
「くだらねえことでウジウジしやがって。そんな起こるかも分からないことに焦っても仕方ないだろうが。」
そう言うと思っていた。
リヴァイにそう言われると、ここ数日の、確かに焦りのような、陰鬱とした気持ちは全く意味のないものに思えるから不思議だ。
「リヴァイは、考えたりしない?私が、居なくなったらどうするかって。」
絡まった指を見ながら呟くと、沈黙が降ってきた。
これは、まずいことを聞いた時の反応だ。
繋がれた手にぐっと力が入った。
「リヴァ、」
「考えたくもねえな、そんなこと。」
もう一度視線を戻した先のリヴァイは、すっかりオレンジが消えた壁の向こうの世界を睨んでいるようだった。
今、どんな顔してる?見たいなんて言ったら不謹慎だと怒られるだろうか。
「お前が死ぬことは許さねえ。もちろんそれ以外で俺の前から居なくなることもだ。だから、そんなこと考えても意味ねえんだよ。」
さっきとは違う痛みが、心臓をぎゅっと締め上げた。
リヴァイは、人類最強だけど、それでも完璧に強いわけじゃない。彼だって人間なんだから。
こうやって、強がって見せるのは私や幹部連中くらいにだって分かるから、余計にこんなに愛しくなってしまうのだ。
そっか、と、それだけを返した。
「name、」
「なに?」
「俺はここに居る。何かあったらすぐに助けてやる。だからそんなくだらねえことをもう考えるんじゃねえ。」
「…うん。」
今度は、涙が溢れた。
ああ、もう、その言葉だけで、それだけでいい。
暗闇の中で、リヴァイは腰を折るとそっと口付けてくれた。
そして親指でごしごしと涙を拭われる。
「行くぞ、うるせえ奴らがお待ちかねだ。」
「私、立派な大人なんだけどなぁ。」
先に立ち上がったリヴァイに腕を引かれ立ち上がると、その勢いのまま短く強く抱き締められる。
「あいつらにはそんな質問してくれるなよ。面倒くせえことになるからな。」
私が居なくなったら?
きっと、エルヴィンは私を前線に出してくれなくなるし、ハンジは目障りなほどに泣き喚いてしがみついてくるに違いない。
何故か、私をとてもかわいがってくれる彼らは、本当に過保護だ。
「そうだね、めんどくさいや。」
笑うと、繋いだ手をそのままに引かれるまま歩いて行く。
「そういや、付き合いだした時もこんなこと言ってやがったな、お前は。」
リヴァイの言葉に、何年か前のことがふと思い浮かぶ。
リヴァイと付き合いだした頃、周りに慕われ、女性兵士からの支持も厚いリヴァイにやきもきし、一人悩んでいた。
そしてその時も、リヴァイは自分の妄想に押し潰されそうな私の不安を、見事に取っ払ってくれた。
「悩む内容がリヴァイの気持ちじゃなくて、生死の問題になったのは大人になったってことじゃない?」
「馬鹿なこと抜かすな。」
繋がれた手が離れるのを、名残惜しく感じる。
リヴァイは私に向き直ると、背中から壁の内側に足を落とした。
視界からリヴァイが消えると、すぐにアンカーを放つガスの音が心地よく響く。
私は、完全に夜になった空に光る星を見上げて、一つ息を吐くと、リヴァイの後を追って空中に身を投げ出した。
何を焦っていたの?
食事の時間に遅れて食堂に入った私たちを待っていたのは、一口も食事に手を付けず律儀に私を待ってくれていた幹部たちだった。
申し訳ないやら嬉しいやら愛しいやらで、私はリヴァイに怒られながら、それでも笑ってしまうのを抑えられなかった。
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