愛を止めないで
兵長がすごいことを言い出した。
真顔で。





「name、お前は俺の女になれ。」


二人で来るにしては珍しく、少し気取ったレストランで兵長と向かい合っていた私は、口に入れようとしていたマッシュポテトが落下したことにも気付かずあんぐり口を開けたまま兵長を凝視した。

おんな?

「えー、兵長、それは性別的な意味でですか?それであれば私は生まれ落ちた時から、」

「ふざけたことを抜かすと削ぐぞ。」

すみません、ボケるにしては雑でした。

兵長は凄みのある睨みを利かせてから、律儀に腕を伸ばして紙ナプキンで無残にテーブルに落ちたマッシュポテトを拭ってくれた。

「え、じゃあ何かの嫌がらせですか。ドッキリ?あ、もしかして罰ゲームですか。ハンジさんか誰かに何かで負けたんですか。」

「俺がそんな下らねえ事でこんな事言うわけねえだろうが。」

心底呆れたような顔つきで、兵長はそれは綺麗に肉を切り分け、優雅に口に運んだ。
巨人の肉を削ぐのに長けている人は、こういった肉を切るのも上手いものなのだろうか。

「…言っておくが、この程度の酒で酔っているわけでもねえからな。」

「あ、そうですよね、はい。」

私の視線が、肉を咀嚼する兵長から手元のグラスにちらりと向かったことがバレたらしい。次の言葉の先手を取られてしまった。
確かに兵長のグラスにはまだ半分位の赤ワインが残っていて、これはまだ3杯目だったはずだ。兵長がそのくらいで酔うはずがないことはよく分かっている。

だとすると後は…。

私が腰を浮かせて兵長に向かって腕を伸ばすと、そのサラリとした前髪を避けて額に手を当てる。

「ほぅ…お前は余程自分の命を捨てたいらしいな。」

その手の下から覗いた眼光は、視線だけで巨人1体死滅させられるのではないかというほどの鋭さだった。

「嘘です。いつもの可愛い冗談ですすみません。」

即着席。
すぐに椅子に腰を下ろす。

だとすると後は…。

「…マジですか?」

「大マジだ。」

続けるネタが切れ、おずおずと聞いた質問には、僅かな希望を打ち砕くような被せ気味の答えが返ってきた。
この展開は何なんだろう。

「…でも兵長は何というか、人類最強だし、人気者だし、私なんかにとっては遠い雲の上のような存在で…。」

「ほぅ、お前はクソつまらねえ冗談を連発したり、夜中に愚痴を聞けと押しかけたり、財布を忘れて酒を奢らせたり、酔っ払うたびにグダグダ絡む相手の事を雲の上の存在と呼ぶのか。」

「すみませんでした。」

今度は私が被せ気味に謝る番だった。耳が痛い。確かにそれは全て私の所業である。
仮にも上官であるこの人に、随分失礼な事をしているなあと改めて突き付けられたようだ。

俯いたところからちらりと兵長を見やると、相変わらずこちらに睨みを利かせていた。どうやら本当に冗談は受け入れてもらえないようだ。

「…兵長は、何ていうか…、マブダチ、みたいなもんじゃないですか。」

上官に向かって「マブダチ」もないだろうが、それが私の本心だった。

私がふざけるのを止めたのが分かったからか、兵長は腕組みをして黙って聞いていた。




本当だった。

兵長とは上官と部下ではあったけれども、実戦でもプライベートでも気が合い、壁外調査ではよく班員として一緒に戦ったし、飲みに行ったりご飯に行ったり、紅茶の趣味も合い非番が重なった時はカフェに出かけたりして一緒に過ごすこともあった。
兵長の言う通り、悩み事があると良く聞いてもらったり愚痴ったりもしていた。

だが、それは、あくまでそこに性別はなく、兵長も私の事を女としてみているような素振りは全く感じられなかったから成り立っていたのではないのか。だからそのやさしさを、懐の深さを、居心地の良さを、安心感を、全て躊躇いなく信じて受け入れてきた。

酒場で酔いすぎて兵舎に帰れなくなった時、兵長の部屋に泊まるのを渋った私に「お前を襲うくらいなら巨人を襲う」と言ったではないか。

「…あれも、今までのも、嘘、だったんですか。」

口に出して後悔した。言葉にした途端、それはとてもとても重くショックな出来事として自分の中に存在を顕にした。

今迄私の前に居たあの兵長は、一体何だったのだろう。

「ああ、そうだな。」

変わらぬ調子で戻ってきた答えに、私は俯いた視線の先にある拳をぎゅっと握っていた。

「お前に言ってきたことや、お前にしてきたことには何の偽りもない。」

続いた言葉に、私は思わず視線を上げる。兵長はいつもの落ち着いたその目で、じっと私を見つめていた。

「だが、それがお前への下心の有無という話であれば、それは嘘だったということになる。」

ああ。この人のやさしさが、懐の深さが、居心地の良さが、安心感が、嘘であるはずはなかった。そんなことは分かっていた。
でもそれは、私への気持ち有って、そこに存在するものだったんだ。兵長が、作ってくれているものだった。

他の女の子なら、手放しに喜ぶんだろうか。胸をときめかせるんだろうか。嬉しさに涙を浮かべるんだろうか。

でも、私の心は、ただ沈み込んでいくような気がした。

「…、兵長は、知ってるじゃないですか。」

私が曖昧に言った言葉は、しかし兵長には明確な意味を持って届いたはずだ。それくらい、お互いのことを分かっているような関係だった。

「ああ、そうだな。」

また、さっきと同じ返事が返ってきた。
そしてそれはさっきと同じように私の気持ちを沈み込ませる。

何年も前、私には好きな人が居た。同じ、調査兵団だった。本当に好きだった。その人が居たから、調査兵団でもやってこれた。
相手も私を好いていてくれていたと思う。
思う、というのは、結局その人の気持ちは、ちゃんと確かめられなかったからだ。

「この壁外調査が終わったら、話したいことがある。」

そう言って、彼はその壁外調査からは帰らなかった。
絶対に生きて帰ると、そう言っていたのに。

全身が引き裂かれるような思いがした。死ぬ以外に、こんなに苦しいことがあるのかと思った。
私はあの時から、どこかで「絶対」はないのだと、自分に言い聞かせてきた。友も、先輩も、後輩も、絶対死なないなんてことはないのだ。もちろん、私も。

だから、もう、誰かを好きになって、誰かが死なないと信じるのは辞めた。あんな苦しみは、もう耐えられないから。

そしてあの時、地獄を這いずっていた私を引っ張り上げてくれたのはやっぱり兵長だった。
だから兵長は、私のその気持ちを全部知っている。



「…じゃあ、何で、」

「知っているから、これまで自分の気持ちは隠してきた。出したところでてめえは逃げるだけだと思ったからな。」

俯いたまま言葉を零した私に、兵長の声はそれでもいつも通りの落ち着いたものだった。

その通りだろう。きっと、好意を示されていれば、私は兵長にそれ以上近付かなかったはずだ。
兵長は、それを分かっていた。
兵長の部屋に泊まったあの夜の言葉も、嘘じゃなかったんだ。あの時、私に何かをする気は、兵長にはなかったんだ。

「だがな、nameよ、」

普段、私に何かを言い聞かせる時と同じ声がして、私はもう一度顔を上げた。

「もう、いいだろう。」

「もう…?」

「お前の傷も、俺たちの関係もだ。」

兵長を見つめたまま何も言えないでいる私をじっと見ると、兵長はテーブルにかけてある伝票を徐ろに手に取った。
そして、もう一度私を見据えた。私は、まだ、何も言えないままだ。

「いいか、name。お前にある道は2つだ。」

兵長の淀みない声。いつもは軽口が止まらない私の口は、今はその機能を停止しているみたいだ。


「俺を選ぶか、選ばないか、だ。」


兵長は椅子の背にかけてあったジャケットを手に取ると、立ち上がり最後に言った。

「店の外で5分待つ。俺を選ぶつもりがあれば、その間に来い。ないなら、俺が去るまでここに居ろ。自分で選べ。」

私の顔には明らか狼狽が浮かんだと思う。
まるで訓練の指示をするかのような兵長の言葉に、思わず喉が鳴った。

「脅すつもりはねえが、俺を選ばなければ俺はお前の前から消える。もうお前の傷に付き合ってやる気はねえ。」

きっぱりとした、有無を言わさぬ声音で兵長は言った。
瞬間、心が凍るかのような錯覚に襲われた。


「だが、」

言葉を切った兵長に、自然と視線が上がる。


「だが、name、お前が俺を選ぶなら、いつでも泣きに来ればいい、俺のところにな。」

そう言って、最後にもう一度私の目をじっと見つめると、兵長は名残も何もなく颯爽とエントランスへ向かった。


また戻れるかもしれないと、甘く考えていた自分もいた。このまま流しきれれば、拒み続ければ、「なら仕方ねえ。」とか何とか言って、またいつも通りに出来るんじゃないかと思っていた。

でも、今までの私たちはもう居ないんだ



『お前にある道は2つだ。』
と、兵長の声が蘇る。


混雑した店内の人ごみの向こうに、ウエイターと言葉を交わしながら精算を済ましている兵長の姿が、放心した目にぼんやり小さく見えた。

そこに、私からまっすぐ、白く細い道が伸びている気がした。その先には、兵長がいる。

(…もう1本は?)


ドアのベルの音がして、ウエイターたちのお見送りの挨拶が重なって聞こえてきた。
あのドアの向こうで、今、兵長は私を待っている。

さっきまで兵長が座っていた椅子の方に視線をずらすと、そこにはもう1本の道があった。
兵長が、いない道。

(兵長が、こんなことを言い出すのが悪い。)

私は、もうあんな思いはしたくない。そう決めたじゃないか。例えそれが人類最強と言われる兵長だって、不死身なわけじゃない。

赤ワインが残る自分のグラスを手に取り、ぼーっと眺めるとゆらゆらと濃い紅が揺れた。

ただこのグラスに残るワインをゆっくりゆっくり飲んで、時間をかけてこの店を出るだけで、いい。
そうすれば、私はまたあんな思いをすることを怖がって生きるなんてことをしなくて済む。穏やかに生きられる。

この、兵長がいない道を選べば。

(そうだ、そうすれば。)




でも、この数年に、兵長がいない時間なんてあっただろうか。
笑うことなんて忘れていた、生きる楽しさなんて忘れていた、何にも信じられなかった私を光の中にもう一度引っ張り上げてくれたのは、他でもない兵長だった。

ちろりと舐めた赤ワインは、とても上質な味だった。
思えば、私が赤ワインを嗜むようになったのも兵長の影響だ。

私たちの関係は、あくまでそこに性別はなく、兵長も私の事を女としてみているような素振りは全く感じられなかったから成り立っていたのではないのか。




本当に、そうだったか?



私はどこかで考えていたはずだ。
この優しさは、私だからのものなんじゃないのか。
この懐の深さは、私を包み込むためなんじゃないのか。
この居心地の良さは、私のためのものなんじゃないのか。
この安心感は、私への愛が成すものなんじゃないのか。


そして、きっと、そうであったらいい、と、
私はどこかで考えていたはずだ。




残りの赤ワインを一気に喉に流し込むと、食道を熱いものが流れていくのを感じた。
グラスをテーブルに叩きつけるように置いた視線の先には、その空の椅子の先には、もう道は見えなかった。



私は、ぐいっと口元を手の甲で拭うと、椅子にかけていたカバンを引っ掴み駆け出した。




目の前に伸びる、ただ1本の道へ。





を止めないで
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