哀しいのは俺だけじゃない
「イッ痛ェェ!!」
 と叫んだ宍戸先輩はラケットを放り出し、顔面を押さえガクリと膝を突いた。
 つい先日電撃的に正レギュラーへ復帰し、今は大会に備えた基礎練で鳳と打ち合っていたところだ。
 向日先輩のサーブ練習に付き合っていた俺には、何が起こったのかわからない。
 鳳のスカッドサーブは打ち所が悪ければ骨折もあり得る威力だが、宍戸先輩がボールに当たったわけではないようだ。
「いいから放っとけよ、日吉」
「しかし…」
 サーブ練習用のスペースからは、隣のコートの様子が嫌でも目に付く。
 氷帝テニス部は確かに馴れ合いはしない気風があるが、向日先輩の言い様は冷酷に過ぎると思えた。
 俺達が言い合う間にも、相手コートにいた鳳は「宍戸さん?!」と叫びながら走り出し、異常に華麗な抜き足でネットを飛び越えている。
 いつもヘラヘラしてるのが嘘のような厳しい顔で、パートナーの傍らに膝を付く。
「どうしたんですか、宍戸さん?!」
「目が、目がぁあ」
 超有名なアニメ映画のワンシーンを思い出してしまったのは俺だけではないだろう。
 宍戸先輩はよほど痛いのか普段の先輩風もかなぐり捨てて、立ち上がる事さえできないでいる。と。
「失礼します」
 鳳は俊敏に宍戸先輩の膝裏を攫うと、横抱きにしたまま身軽にコートを横切りベンチへ下ろした。不安定な体勢で反射的にしがみついた宍戸先輩が、我に返って鳳の腕から降りようともがく頃にはベンチに着いていた素早さだ。
 鳳は宍戸先輩の正面に跪いた。
「目がどうしたんですか? ちょっと見せてください」
 激痛で軽くパニック状態の宍戸先輩を落ち着かせようと優しげに促すが、当の先輩は目をこすり続け涙をボロボロ流している。
 向日先輩がフェンス越しにそれを一瞥し嘆息する。
「どーせ宍戸の奴、ワックスが溶けたんだろ」
「ワックス…って髪に付ける方のですか?」
「だからやめとけって言ったのに」
 どうやら宍戸先輩は、短くなった前髪を立てるのに使っていた整髪料が熱で溶けて、汗と一緒に流れて目に入ったようだ。
「宍戸さん、こすっちゃダメですよ」
 鳳が宍戸先輩の両手首を掴んで顔から引き剥がす。
「んなコト言ったってイテェもんはイテェんだよ!」
 目を真っ赤にして宍戸先輩が薄目で鳳を睨む。まともに目も開けられないらしい。
「待って、いま楽にしてあげますから」
 宍戸先輩の膝の間に割り込むと、鳳は先輩の顎を固定するように掴んだ。
 キスでもするような体勢に、ギョッとしたのは俺だけではないはずだ。
 もちろん鳳はキスなどせず、しかしなぜか舌を伸ばし…、宍戸先輩の目を舐めた。
 宍戸先輩の喉から悲鳴のような音が漏れたが、構わず鳳は汗と整髪料に濡れた瞼と眼球を丁寧に舐めあげる。
 宍戸先輩は最初こそ暴れて離れようとしたものの、どうあっても鳳の力が緩まないと悟ったのかやがて大人しく肩を落とした。押しのけようとして鳳のジャージの胸辺りをギュッと掴んだままなので、すがりついているようにも見える。
「少しは楽になりました?」
 鳳は首を傾げて、ジャージの袖で宍戸先輩の額をぬぐう。もはや宍戸先輩は反抗する気力も尽きたのか、頑是無い子供のようにこくんと頷いた。
「じゃあ、一緒に医務室へ行きましょうか」
 目元を赤く腫らしフラフラと立ち上がった宍戸先輩の手を取って、鳳はごく自然に寄り添った。
 思わず口を開けたまま、そんな2人を見送ったのは俺だけではなかった。ハッとして見渡せば周囲の平部員達も、いわく言い難い表情を浮かべている。
「宍戸の事は宍戸係にまかせとけって。ほら、コート空いたぞ、今度は的になれよ」
 向日先輩はまるで何事もなかったかのように即座にコート所有権を主張した。
 正レギュラーになるには、何事にも動じないこのメンタルが必要らしかった。


[哀しいのは俺だけじゃない]完

鴇椰さんリクエストありがとうございました!
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