あれは、茹だるような京都の暑さにうんざりとしながら家路に着いた夕方の事だった。長州から攘夷のために出てきたとはいっても、何ら大きな事もなす事は出来ずにいた。そんな憂さを晴らすかのように仲間たちは花街へと繰り出して行った。私は、そんな気分にもなれず借りている宿屋へと戻ろうとしている時に、1人の女と出会った。どうやら、女は足を挫いてしまったらしく、恥ずかしそうに目を伏せた様が可憐でいて妙な色気があった。放っておけぬと宿屋に連れていき手当をしたのは、決して疚しい気持ちがあった訳では無いが、どうにも離れ難くあれこれと尋ねては時間を延ばしていた。女の名は葵といい、江戸から京で行方が分からなくなったという兄を探しに来たのだという。宿を探している時に酔っ払いに絡まれ転んでしまい足を挫いたのだという。私は哀れに思うと同時に、そのお陰で葵と出会えたと、こっそり喜びを感じた。


葵の兄君は京で鍼師をしていたらしい。年は2つ上で鳶色の髪をした優しい兄だと言っていた。手がかりは京にいたということだけで、他に心当たりもないらしい。しかし、京とて広い上に今は物騒な世の中だ。女一人では危ないと言えば、それでも唯一の肉親である兄が心配で見つけ出したいのだという。とりあえず挫いた足が治るまでは、と宿屋には許嫁が訪ねてきたと話を通し部屋を共にすることにした。婚前前の男女が同じ部屋でとは思ったが、残念ながら新たに部屋を借りる宿代もなく、それにその頃にはすでに葵と所帯を持つ気でいたので構わなかった。


仲間には、随分と別嬪な嫁を貰ったなと揶揄れたが、本当にそうだと思う。深い青みがかった黒髪に蒼色の瞳は物静かな葵によく似合っていた。嫁と言われ葵は反論することなく恥じらうのみで、私としてはそれも愛らしいところだった。



葵の兄探しは3ヶ月経つが手掛かりもなく、私は密かに安堵していた。葵は兄が見つかれば出ていってしまうのではないかと不安に思っていたからだ。葵がそんな不実な真似をするわけがないというのに。さて、不思議なことなのだが、私は葵と閨事をしていた記憶が朧気であるのだ。最初は幸福から夢のような事だと思っての事だと思っていたが、それが毎回なので、流石に可笑しいと思うようになった。しかし、確かに致したような記憶もあれば翌朝の寝乱れた布団やら着物などを見れば私が可笑しいのかと首を傾げるばかりだ。まさか葵に「確かに致したのだな」等と尋ねるわけにもいかぬ。それはきっと私の気の所為なのだろう。


さて、幸せ呆けていた訳では無いが、私も攘夷志士。今まで恥ずかしながら大した働きをする事が出来なかった私達だが、ようやっと国の為に動く時が来た。気が昂り仲間達と呑み明かしている私達に、葵は「何かあったのですか」と静かに聞いてきた。そうだ。葵には話しておいた方がいいだろう。何しろ事が事である。兄探しは諦めて京を出るよう言わねばならぬ。国のためとはいえみすみす葵を死なせたくはない。仲間達も、そう思ってくれたのだろう。1人が密やかな声で「あのな」と切り出した。


葵はその計画を聞いて静かに目を見張ると、「そうですか。」とだけ言った。ただ、不安そうな顔で見てくる葵に私は「京を出て欲しい」と告げた。



可笑しい。何故だ。京に火を放つという私達の計画は失敗に終わった。新選組という浪士たちの集まりで出来た幕府の犬により私や仲間達は捕えられてしまった。1人暗い牢屋の中、私は別れた恋しい葵を思った。葵とは大阪で落ち合う予定だったのだ。何時まで経っても訪れぬ私を待っているのではないかと思うと胸が痛む。そこへ、ギィィという音と共に光が差し込み眩しくて私は目を眇めた。ああ、私は可笑しくなったのだろうか。目の前に立つのは葵ではないか。どうしてこんな所にいるのだ。「葵…」と私が呼ぶと「この度の計画の主犯は誰だ。」と落ち着いた低い男の声が返ってきた。可笑しい。葵は確かに物静かな落ち着いた声色をしていたが、柔らかな女の声をしていた。それに着ているのは黒い着流しに白い襟巻きと男の出で立ちで、ますます分からなくなる。果たして目の前にいるのは葵なのか。「斎藤。」と、葵と瓜二つの男の隣に立つ男がそう呼ぶ。「どうせ聞いて素直に吐くようなもんじゃねぇだろ。」と男は淡々とした声音で告げる。



痛い


痛い


殺してくれ


死なせてくれ



2人は私に容赦なく拷問を与えた。3日、恐らく3日それでも私が吐かずにいると、2人は「もう駄目だな」と諦めたようだ。そもそも無駄なのだ。私達は主犯など、知らぬのだから。やっと、やっと死なせて貰える楽になれると思った頃だった。私はやっと恋焦がれた声を聞くことが出来たのだ。


「さようなら、XXX様。」


確かに葵の声でそう呼ばれたのだ。それを最後に私の意識は途絶えた。



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「随分と惚れこまれたな、葵。」


「…おかげで良い情報をあっかり流してくれました。京に火を放ち大火を起こす等という真似を防ぐことも出来ました。あっさり引っかかり過ぎて、最初は警戒しましたが。」



「斎藤…悪かったな。」



「お気になさらず。副長の心配りのおかげで貞操も守れましたし。」

「それについては、山南さんに感謝だな。幻惑を見せる効果がある薬なんぞ、初めて知ったぞ。」


「俺もです。ですが、助かりました。貴方以外の男に抱かれるなど御免ですから。」




おわり
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