sic infit 《そして 物語は始まる》
#モブ視点の番外編





私の名前はノゾミ タカハシ。
でも皆には洗練名のアンナって呼ばれている。ノゾミは日本人のおじいちゃんがつけてくれた名前だけど、私の見た目はアメリカ人であるおばあちゃんやママの血を色濃く引いて、髪が黒いこと以外にはおじいちゃんや、二世であるパパに似ているところはあまりない。顔立ちがアメリカ人そのままだから、私はずっと自分の名前が嫌いだった。だから初めて会う人にはアンナとしか名乗らないし、友達も先生も私のことをアンナと呼ぶ。

日本が嫌いなわけじゃない。
街に溢れる煩くて、図々しくて、下品な大人たちと違って、物静かで紳士的なおじいちゃんが私は大好きだった。だからこそ、おじいちゃんから貰った名前に全然似合わない容姿をしている自分が嫌いだったのだ。


大好きなおじいちゃんが、天国へ召された次の年から、私はあるお宅へアルバイトにいくようになった。
バイト内容が、男性二人暮らしのお宅の家事手伝い、なんて聞いたら、友達は目の色を変えて今すぐ辞めたほうがいいと言ってきた。その話をした3人の親友全員がだ。
でも、そのバイトの雇い主を告げた途端、彼女たちはピタリと口をつぐんだ。



「Hello?」
「アンナです」

庭付きの真っ白い壁の家のベルを3回鳴らすのが、私が来たことを知らせる合図。それでもきちんと名前を告げるまで、厳重なセキュリティが解除されることはない。

「アンナちゃん、いらっしゃい。外暑いやろ、アイスあるで?」

ドアに4つも取り付けられた鍵を解除して開けられた向こうから、長身のすらりとした男性が顔を覗かせた。少し長めの髪と細めの目がミステリアスな雰囲気だけど、中身はかなり曲者だと最近やっと分かってきた。

「ありがと、食べようかな。買い物してきたよ、食材と洗剤とアイロン。もう、アイロン壊すの何回目?出来ないなら出来ないで私がいるんだから、頼めばいいのに…火事になったら大変だよ」
「いやぁ、ゆっくりやれば出来ると思うたんやけどなぁ」
「火傷なんかしたら、私が怒られるんだからね!チャレンジ精神が旺盛なのはいいけど、危ないことは無理しない!」

買ってきた食材をキッチンの定位置に収めていきながらガツンとキツめの口調で言うのだが、彼はいやぁとか、何とか言いながら食えない笑みを浮かべてお茶の準備をしている。あれは絶対に、また自分でやろうとして壊すんだろうな。

コーヒーの豆はキッチン脇のパントリーの真ん中の棚の籠の中。パスタは下の段の木箱の中。トマトのホール缶はその隣。
玉ねぎは冷蔵庫の隣の2段式バスケットの下の段。上にはりんごやオレンジを。
間違いなく、いつもと同じ場所に収めていく。絶対に間違えないように、決められた場所に。

だって、当然のように隣で紅茶を淹れている彼は…視力の半分を失っているのだから。



私がこの家でバイトするようになったきっかけは、弟が通っているバスケクラブのコーチの紹介だった。
プロとして活躍したあと病気で現役を引退した彼女はジュニアのバスケクラブのコーチをしていて、私の弟もその教え子だった。
弟を迎えに行ったときに、私が大学で日本語や日本文化を学んでいると話すと、彼女は私の手を取りバイトをしないかともちかけてきた。聞けば、病気で視力を半分失った知り合いが近くに住んでいて、その生活の手伝いをしてあげて欲しいと言われたのだ。

その知り合いが日本人だと聞いた私は、思わず首を縦に振った。大学を卒業したら、おじいちゃんが生まれた国の大学院に進みたいと思っていた私にとって、願ってもない機会だった。



……とはいえ、まさか…その雇い主がまさか「彼」だったなんて。

「んー、美味しい!やっぱりココのアイスは絶品!このクロミツが最高っ」
「ほんま、アンナは抹茶味が好きやねぇ」

クスクス笑いながら自分はアイスは食べずにゆっくりと紅茶を飲んでいる。

「だって美味しいんだもの。私、日本に行ったら着付けとお茶を習うの」
「ほんなら、えぇ奴紹介したるわ。そういうのんに詳しいだろうから、今度遊びに来た時にでも紹介したる」
「ありがと、期待してるわ」

最初にこの家に来た時、家には彼しか居なくて。私は弟のコーチの彼女と一緒に訪れて挨拶をした。
彼はネイティブ並みに英語を話せたけど、私が日本に留学したいのだと言うと笑顔を浮かべて、それ以降は日本語で話しかけてくれた。事前に視力に病気を抱えていることは聞いていたし、本人からも説明を受けたけど、実際に接する彼は聡明で頭の回転が物凄く早くて…まるで全て見えているかのようで心底驚いた。
それを正直に話してみたのだが、彼は気を悪くするでもなく笑みを浮かべて(その頃はまだ彼のその笑顔が食えないものだとは思ってなかった)、「日本の知り合いにはもっと凄いのがおるねんで」と言っただけだった。


そして迎えたバイト二回目。
週2回という契約に従って訪れた家で、開いたドアの先にいたのは彼…でなくて。彼よりも更に長身の、今アメリカで…いや、世界で1番か2番に有名なバスケットボール選手だった。

その時の衝撃を、いったいどう言葉にしたらいいんだろう。
ドアが開いて、確かにインターホンに答えたのは先日会った彼なのに、現われたのは色黒でがっしりと筋肉質な男だったのだ。私が持っていた荷物を取り落とし、声にならない叫びをあげたことを誰も責められないだろう。

「……あんたが、バイト?」

じっくりと私の足の先から頭の先までを見てから、不機嫌さを隠しもしない声で問い掛けられ、頭が真っ白になる。
家の奥からバタバタと彼が来てくれたのがもう少し遅かったら、私はその場に卒倒していただろう。


「でも、あの時は本当に驚いたわ。ドアが開いたと思ったら、NBAのスーパースターが出てきたんだもの」
「またその話かいな。アンナも飽きひんなぁ」
「本当に驚いたの!もう、先に言ってくれたら良かったのに…」
「堪忍堪忍。せやかて、バイト頼んだー言うたらあいつ、俺に会わせろ。一発ガツンと言っとかねーとってうるさいねんもん」
「はいはい、えっと…そういうのは、犬も食わないんだよ」
「お、よぉ知っとるやん。偉いなぁ」

そんな言葉、あいつはよぉ知らんと言って笑う顔は、いつもの胡散臭いものとは違って何とも優しげだ。


私がバイトを始めてすぐ、日本の週刊誌の報道をきっかけにして白熱したNBAの日本人スーパープレイヤーとハリウッド女優との熱愛報道は、本人が別人との真剣交際を発表したことで収束するかに見えた。ところが、今度はアメリカのゴシップ誌がその交際相手が同性だと報じ再熱。この家の周りも、連日近付けないほどに周りを囲まれ大変な騒ぎだった。
パパラッチを避けてホテル住まいをしていた彼は、事態が納まるまで無視を通せばいいと言っていたが、チームがその年の優勝を決めた、その試合の後。スーパープレイヤーの彼はMVPのインタビューで報道の全てを認め、交際相手が同性であること。結婚も視野に一緒に暮らしていることを自分の言葉で話したのだ。

「同性とか、そういうのが嫌いな人や認められない人がいるのは分かってます。でも俺にとって、あの人はバスケと同義なんです。俺の中身は90%くらいバスケで出来てる。でもそのバスケは、あの人と同じなんです。あの人がいなきゃ、俺は今バスケをしていないし。バスケをしていなきゃ、あの人と出会えなかった。だから、俺は誰よりもバスケが好きだって、胸を張って言える。……バスケのせいで辛いこともあったし、苦しい時もあった。でも、あの人がいたら、俺は今ここにいる」


世界中を駆け巡ったこのインタビューは、今でもバスケファンだけではなく多くの人の心に残っている。


運命。
その言葉を口にするのは容易いけれど、2人を見ているとその言葉以外に2人を表す言葉を私は知らないのだ。



「ねぇ、今日のディナーなんだけど…本当にハンバーグなんかでいいの?せっかくの特別な日なんだから、ステーキとかお寿司とか…」
「ふふっ、えぇねん。今日の主役はいつまでたっても子供みたいな味覚の奴やから」

また、あの愛しくて仕方ない、優しい笑みが浮かぶ。ここに通い始めてもうすぐ1年。この笑顔は何度も見ているけれど、その時はいつも彼の脳裏にただ一人の人が浮かんでいる時だけ。


そろそろ時間だ。
彼を手伝ってハンバーグを作ったら、私は今日は早めに帰ることにしよう。

今日は記念日。大切な日。

バスケのかみさまに愛されたスーパープレイヤーが、愛しい人に出会うためにこの世に生を受けた日なのだから。



今ごろ、チームメイトにパイを投げ付けられたり、シャンパンを頭からかけられたりして手洗いお祝いをされているんだろうか。
それとも、練習を終えて一目散に家路を急いでいるのだろうか。

彼が、そして彼の愛する人が紡ぐ物語は、まだ始まったばかり。
二人はあまりこれまでのことを話したがらないけれど、でもこれから二人が歩む人生は優しく幸せなことが多いものであって欲しいと、心から思う。

胡散臭いし、何を考えているのか分からないけど。聡明で思慮深く、実は慈悲深い彼。
悪人面だし、ずぼらでガサツだけど。才能に溢れ努力を惜しまず、実は繊細な面がある世界のスーパープレイヤー。


二人が紡ぐ物語は、新しく始まったばかり。


end...


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