沈み魚

「あそこでずっと……彼を待っているわ」
 高波にさらわれながら息が絶える寸前に、テティスが呟いた台詞だった。

虹色に光る鱗を煌めかせて、一匹の魚が天を目指して真っ直ぐに昇っている。
大洪水がひいた後の雲ひとつ無い晴天である。
魚はテティスであった。
テティスの脳裏に広がっているのはある光景であった。十三年前に釣り針に引っかかってもがいていた自分を助けてくれた恩人が持つ、手の温もりに恩返しをしたいと海神ポセイドンへと願った。その願いは聞きとげられ、マリーナのマーメィドのテティスとしての器を与えられた。
ポセイドンの魂はアテナによって封印されてしまったが、それでも彼女はそこはかとない満足感を覚えていた。
浜辺に打ち上げられた己をポセイドンから一人の人間であるジュリアン・ソロに戻った青年が、その手で海へと流してくれた時に彼が流した涙からも、彼が本来持っている心根の優しさを確信した。
(もし生まれ変わる事ができたなら、再び彼に会いたい)
もし叶うならばそれは何時になるのか。
テティスが会いたい人はもう一人いる。十三年前に海底で出逢った、愛する人のカノンである。
魚の骸を海底の砂に沈ませ、珊瑚の墓標を作る時に彼の目も涙を流していた。
(十三年もの間ずっと愛し合った人)
カノンがどこからか調達した食料を食べ衣類を着替え、冷え冷えとする海底で二人は身体を暖めあいそれは互いに愛し合う行為に発展していった。そして女神アテナとの聖戦……今では全てが遠い出来事のように感じられる。
そ してカノンが贖罪の為に聖域へ向かう事も直感で悟っていた。その先にあるのは恐らく戦死であろう。そんな生き方しか選べない彼が哀れで、人魚は涙をはらりと零した。アクアマリンの滴が海へ落ちた。

「待っているわ……カノン」
やがて魚の姿は天へと消えていった。―Fin.―
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