Aurora
 氷河は夜明け前の氷原を歩いていた。寒冷使用のブーツで足を一歩一歩、踏み出す度にシベリアの凍った大地が固い音を立てる。
ブルーのコットンTシャツとジーンズを身に付け、足首にレッグウォーマーを履いただけの軽装だが、聖闘士の修行を積んで鍛えた身体と、エイトセンシズに目覚めた小宇宙のおかげで、寒さは感じない。
 彼は疲れを感じていた。疲労のせいか身体が重く、足取りが自然と重くなる。
 神々との聖戦が勝利に終わり
「この地上を我が物にしようとする邪悪な神は、今世紀中には現れないでしょう」
 アテナが宣言し、キグナスは青銅聖闘士としての役目を解かれた。
 修行時代を過ごした極寒の地へ帰って来たものの、迎えてくれる者はいなかった。
ヤコフという友人はいるが、まだ子供の彼には帰るべき家に家族がいる。
(カミュ・アイザック……)
 師も、友も、今は鬼籍に入っている。
(二人を、俺が殺したのだ)
 十二宮の戦いでは師を、ポセイドンとの戦いでは兄弟子を、この手で倒した。
 疲労感は身体から来るものでは無いと、氷河は感じていた。
戦さからの帰還後、氷河はしばらくグラード財団直営の最先端の技術を備えた病院で、世界でもトップクラスの技術を持つ医師によって、最高の治療を受け、戦いで受けたダメージは完全に治癒していた。疲れているのは心だと、氷河は思った。
 戦いの女神アテナとその聖闘士によって、この地上に平和がもたらされた。
 だがあまりにも多くの血が流れ、敵も味方も多数の犠牲者が出た。カミュもアイザックも聖戦の犠牲になったのだ。敵を倒さなければ自分がやられるし、戦士が戦場で亡くなるのは名誉の死である。
(カミュやアイザックに、感傷に浸りすぎている。クールになれと言われるだろうな)
 氷河はふとそんな事を考え、捨てきれない自分の甘さを嘲笑った。
 思考がネガティブな方向に行くのは、やはり精神が疲れているからであろう。
 かつて修行時代にカミュとアイザックと共に住んでいた家に近づいた時、小柄な少女らしいひとつの影が見えた。誰なのかよく見ようと近寄った時に、氷河はギリシャ神話の曙の女神を見たのかと錯覚した。夜明けの虹色の光を浴びてナターシャが立っている。
寒冷使用のブーツを履き、毛糸の白いニットワンピースを着て、その上にラビットのコートを羽織り、同素材のマフラーを首に巻いている。
氷河の姿を認めたナターシャの、ベリーショートの金髪に縁どられた、色白のほっそりとした顔に満面の笑顔が広がり、大きなブルーの瞳が喜びに輝いた。
「お帰りなさい」
意外な人物が、待っていてくれた。
「どうして、今日ここに帰ってくると分かった?」
氷河の問いにナターシャが答えた。
「ヤコフが氷河から受け取った手紙を読んで、今日帰って来るって知らせてくれたの」
 急に押しかけて迷惑だった?と聞くナターシャへいや、と氷河は答えた。むしろ逆だった。彼女の顔を見た瞬間に、白湯でも飲んだかのように胸に暖かい感覚が広がるのを氷河は感じていた。
 さっきまで重かった体もこころなしか軽くなっている。母や師や兄弟子や友に対するのとは違う感情が湧き上ってくる。彼女の暖かさは凍てついた心までも溶かしてくれるような気がした。

――そして、新たな予感がする――

「寒くないか? シベリア人参茶でも飲んで温まろう」
 彼女の背を押して、ドアを開けて一緒に家の中へ入った。
 氷河は暗黒の夜から夜明けが来たのを感じていた。オーロラの訪れによって。――End.――
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