緩やかに激しく恋に落ちる


廊下から2人分の足音が聞こえ、書庫の前で止まったことに溜め息を吐いた。手に持った真新しいはたきから開くドアへと目を遣る。そこから現れたのは、くたびれたおっさんとその腰に手を回してこちらを窺う女だった。


「おお、ここに居たか、リヴァイ」

「何か用か、おっさん」

「熱心に掃除中のところすまないが」

「断る」

「最後まで聞け」

「嫌だね。あんたの後ろにくっついてやがる女を置いてきてからにしろ」


うるせぇ、と続けようとしたところで、瞳を潤ませる女が口を開いた。


「同じパンを分かち合った仲でしょうっ?!
 お願いですよ、リヴァイ!」


媚売りには十分な容貌、心地好い声を崩し、泣きつかれても動揺はしない。可愛いなんざ思っても引き剥がす。女の肩に手を置いた。


「俺は今、とても忙しい。埃を落とす作業の真っ最中だからな。邪魔だ」


この書庫は埃っぽく、本や資料を保存する状態としても最悪だ。全ての棚から物を退け、外に出し終えてすぐにはたきを手に取った。そして5分もしない内に邪魔者がやって来たわけだ。手に力を入れ、女と距離を取る。


「この○○に関する頼みだ。彼女に掃除を教えてやってほしい」


落としたはたきを拾う手を止めた。


「……は? この、苦労も何も知らねぇ脳内お花畑の良いとこ育ちのお嬢さんに、か?」


そもそも掃除を出来ねぇ奴が居ることに驚くが、彼女は無知に無知を重ねた貴族の令嬢。元、ではあるが。

仰いだアイリッシュのおっさんの目は本気。鼻息荒く拳を握る○○の瞳は輝いていた。

……無知の知。故に教えてもらいたい、と。


「お夕食のパンを4分の3差し上げますよ」

「実質4分の1か……。はっ、掃除を嫌がる奴等が多い中、貴重な飯を譲ってまで苦労を乞うとは……ばかだが、まあ、悪くない」


交換条件などなくとも、教えてやるよ。そう言ってやれないのは今日の訓練でそれなりに腹が減っているからだ。それだけだ。

明日の訓練に備えて他の教官達と話があると足を引きずり去っていくおっさんを見届け、晩飯前の書庫掃除を彼女と共に始めようか。


「お前、この2ヶ月間、寝床の掃除すらしてねぇのか?」

「み、見よう見まねでなんとか……」

「炊事も全然だよな。当番制にも関わらず、いつも席に座ってやがるし。洗濯は?」

「……毎日、ちゃんと洗って着ていますよ。りょ、料理は今、少しずつですが、ナイフの練習を頑張っています……」

「傷だらけになって初めて頑張っているって言えるんだよ。まだまだお前は自分に甘い」

「は、はい! これからも、励みます……」


女は入り口に突っ立ったまま、それはもう、虫の羽音のような声で答える。

2ヶ月間、身の回りのことは一通り、自分でやるにはやっているようだ。他の奴等に手を貸してもらっていることは特に何も言わん。

……アイリッシュのおっさんと仲が良いからと陰で噂が飛び交っていたが、特別扱いなら俺の元に連れてこねぇよな。見放され……


「……書庫から物音が聞こえて、怖くなってアイリッシュを呼んだのですが、あなたしかここには居ませんよ、ね?」


唐突なビビりカミングアウトに目を見開く。だからおっさんの後ろにぴったりくっついていたのか。見放されたわけではなさそうだ。むしろ厳しくも甘やかされてやがる。

暗くて狭くて、えー、物音がするといつもの威勢を失うビビり。それが○○だったな。アイリッシュのおっさん、いや、傍に誰かが居ないと不安で仕方無いらしい。

彼女の手を取り、2枚の白い布を握らせた。


「掃除の件はついでか?」

「いいえ。本格的に教えていただきたくて、あなたを捜していたら書庫から物音がっ!」


ばかでビビりだが、変なところで真面目さを発揮する。そんな彼女は、三角巾とマスクをつけこなしていた。そして両手にははたき。棚の上に積もった埃を跳んで落としている。

天井から吊るしたランプの灯火に照らされる○○の横顔は、初めて見た時よりもずっと……その、生命力に溢れていた。


「……んー、ふふっ、じっと見つめられると恥ずかしいですよぅ!」


奴の頭頂を殴りたくなった。


「きゃー! 熱い眼差すぃー!」


奴の耳元で騒ぎたくなった。


「暗くて狭い場所でもリヴァイが居ると安心しますね! 密室に2人きり……ふふっ」


奴の全部に触りたくなった。


「……掃除は上から下へ埃を落とし、ほうきで掃いてから雑巾掛けだ。ここは残念ながら換気出来ねぇが、窓があれば最初に開けよ。外の空気を中に取り込み……」

「照れ屋さんめっ!」

「……見とれて悪かったな、クソが」


調子が狂う。当初の苛立ちと似ている感情をばかは「照れ」と言い片付ける。こんな女に自分の感情を見透かされ、受け入れられると思うと、体も心も全て熱くなってくるんだ。

汚ねぇ手で触ることは嫌だったが、速くなる鼓動を誤魔化したくて、彼女の艶やかな髪を撫でる。埃っぽいくせに、良い匂いがした。クソ、逆効果じゃねぇか。


「リヴァイの手、好きです」

「……っ!」


「生きる苦労を感じられるから」と、他人を傷つけることしかしてこなかった汚ねぇ手を○○は躊躇いなく包み込む。伏し目がちの彼女を前に、鼓動は加速していく。……音、聞こえねぇよな? そんな近づいてねぇし。


「リヴァイが好き……」

「……○○が好きだ」


掌の線をなぞっていた○○の指が止まり、彼女は俺の顔を覗き込んでくる。その双眸に見つめられ、溢れた言葉の羞恥に気づいた。

拒絶し、否定してきた思いは、案外あっさり心に空いた穴にはまった。俺は、○○が、好きで好きで、たまらねぇんだ。


「……」


火照る手から伝わる頬の温度。密着する体。距離が縮まっていく顔。彼女に息がかかり、鼓動が最高潮にまで達した瞬間。


「あっ」


腹が鳴った。○○の、な。冷たかった頬はみるみる熱くなっていき、親指で撫でると、照れ臭そうに笑った○○につられて笑う。


「さっさと終わらせるぞ。晩飯に遅れる」


体ごと顔を背け、マスクをつけ直すと、壁に立てかけていたほうき2本を手にする。薄暗くて助かったな、とかなんとか考えながら、彼女にほうきを押しつけて床を掃き始めた。

隙間に詰まってしまった埃は息を吹きかけて浮かせ、はたきに吸収させる。濡らした雑巾でも良いが、あいにく水が無いからな。


「……リヴァイが跪くとは……掃除に対する思いには敵いませんね」

「諦めなきゃ、その内、敵うだろう。ほら、次は棚と床を拭くから水汲み行ってこい」

「行ってきます!」


ほうきで掃いた埃をちりとりに集め、それの処理と外にある井戸から水を汲んでくるよう頼む。ドアに凭れ、開いた状態で固定する。

廊下を歩くガキ共……同期達が、壁に沿って並べられた本と俺を交互に見てくる。馬鹿面引っ提げる奴等を巻き込んで掃除させるのも悪くないか。埃を見逃さない眼力と体を鍛えられるし、部屋は綺麗になる。一石三鳥だ。


「ただいま、リヴァイ!」

「……ああ、早かったな」


両手で桶を持ち、無邪気なガキのように笑う○○を見ていると、○○は自分の立場や境遇を把握しきれていない気さえする。世界で一番不幸だと笑えない奴よりは良いが……異常と言える程に気楽なんだ、このばかは。


「んー……届きませんね」


どちらも棚の上に手が届かない。仕方無いと踏み台を探し……四つん這いになる○○。何も言えなくなる俺。


「……」


時間短縮の最終手段として覚えておこうか。ブーツを脱ぎ、ひんやり冷たい床から彼女の背中に足を乗せる。慎重にもう片方も乗せ、変な声を出した○○を無視して棚を拭く。


「誰かと何かを共にするというのは、とても楽しいですね。痛い、ですけれど」

「それが生きるってことだ。……おい」

「はい、っ、なんでしょうか?」

「飯、美味いか?」

「えーっと……」

「正直に教えろ。他の奴には言わん」

「……薄い゙!? 痛い、気持ち良い……」


俺が踵に力を入れたことで○○は呻くが、踏み台として崩れることはなかった。


「辛くねぇのか? お嬢さんが突然、こんな場所で生活しなきゃならねぇってのに」

「……辛くないと言ったら嘘になりますが、それ以上に楽しくて、嘆く暇もありません。スープは薄いしパンは硬い……けど、大勢で賑やかに食べられる喜びで美味に感じます。それから訓練は厳しいですが、汗水を流して走り回れることが幸せなのです。
 自由って素敵ですね!」

「そうか。前向き過ぎて上向きだな、お前」


照れる踏み台から降り、棚の掃除を終えた。外に出してある本を運び込んで机に乗せると2人並んで乾拭きを始める。


「リヴァイは、辛いのですか?」

「あ? 別になんとも。むしろここの生活は以前よりずっとマシだからな。飯だって毎日食えるし、掃除用具一式が揃ってやがるし」

「○○と出会えたし。いだっ! つ、爪、当たりました! 強烈ぅ!」

「デコピンだ。額を指で弾くことを言う」

「照れ隠しの一種ですか?!」

「そう思いたいなら好きにしろ。……調査兵団に即行けなかったことは苛立つが、ここに来られて良かったと思う。前を向く大切さを改めて知れたからな」


拭いた本や資料を棚に並べ直す。順番は多分合っているが、後でおっさんに確認だ。


「よし、最後だ。床を拭くぞ」

「ハッ! リヴァイ訓練兵長!」

「……楽しそうで何よりだな」


真剣な表情で敬礼する○○。掃除に関して文句を言うどころか、学ぶ姿勢を一切崩さず楽しんでいる。悪くない心掛けだ。


「うっ……」


○○は雑巾に付着した黒い埃を見て、顔を強張らせた。黙って見上げてくる彼女に濡れていない雑巾を渡し、水気を拭き取るように指示を出す。○○に代わり、俺は水拭きを始めた。追従する彼女の懸命な表情に、最悪だった第一印象は覆されていく。


「呼吸がしやすいですね」

「まずそこかよ」


外した布を畳み、大袈裟な動作で深呼吸する○○を横目で見ながらドアを開いた。

晩飯の時刻を報せる鐘が聞こえ、掃除用具や桶の汚水を片付け、手を洗って食堂に通じる廊下を歩く。全身を洗いたい衝動より先に、1時間程前に自分が発した言葉が頭を巡る。


「さっき言ったことなんだが……」

「はい?」

「……その、脳内お花畑……」

「はい!」

「……悪かったな。印象が変わったよ」

「本当のことですから、気にしていません」

「お前はアレだよな、道端に咲いた小さな花
……の傍らに生える雑草みたいな奴だよな」

「踏んでも踏んでも懸命に立ち上がります」

「呆れるくらいな」


騒がしい食堂に着き、代わり映えのしない、しかし貴重な飯が乗ったトレイを受け取る。食べたらすぐに体を洗おうと思っていたら、何故か○○が隣に座ってきた。


「向かいじゃなくて良いのか?」

「はい。私は小さな花の傍らに生える雑草ですからね! これ、今日のお礼です」

「あ、ああ……」


○○が懸命に生きる雑草なら、俺はそれに支えられている花、か。……体を洗ったら、思いきり抱きついてやろう。そんなことを考え、4分の1のパンを口に放った。


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