虹、みっつ-勘十郎と勝家-

[勘十郎と勝家]










先まで萌葱色の空だったのに、気が付いたときには灰色になり、次に気付いたときにはザババババ…と滝のような雨が降ってきた。
勘十郎は廊下まで出て軒下から空を見上げたが顔に雨がかかって冷たかったので、顔をゴシゴシしながら、父信秀と目付柴田勝家の傍までパタパタと戻った。

「おにわにね、かえるさん、いっぱい!」
「梅雨だからねぇ。雨も降ってきたから、喜んでいるんだろうねぇ」
「あめ、いっぱい!」
「そうだねぇ、勘十郎。冷たかったろう?」

優しい声色で父に問われ、勘十郎はうんっと大きく頷いた。
雨は冷たいが、勘十郎は蛙もかたつむりも大好きだ。
雨は、嫌いではない。
だがー…。

「でもねー、あにうえはもぉっとつめたいよぅ」

勘十郎がにっこり笑いながらそう言った瞬間、信秀の満面の笑みが、ピタッとその顔に貼り付いたままになった。
そして奇妙に笑ったまま…。

「あ、に、う、え?」
「はいっ、あにうえ!さっき、おにわのぬけみちにね、ちゃいろいおぐしが、ひゅう〜ってきえちゃったのです」

信秀も勝家も無言を決め込んだので、室内にはザバザバ降る桶をひっくり返したような雨の激しい音と、勘十郎がご機嫌に歌う鼻歌だけが軽快に響いた。
…のは、十五秒程度。

「まぁ…さぁ…ひでぇぇぇぇえ!!」

信秀が大絶叫して弾かれたように立ち上がったので、勘十郎は目をまん丸にした。
鼻歌もやめた。
信秀は足音をだしだし鳴らして廊下に出、どこかへ行ってしまった。
声だけが、遠ざかる雷鳴のように、勘十郎の鼓膜をピリピリさせた。

「どこだ、政秀!また我が愛しの吉法師が脱走したぞ!こら政秀!どこだ!さっさと吉法師を探しに行け!まさひでぇぇえ!!」

ふーっと息を吐く気配がしたので、勘十郎はくるりと振り返って勝家を見た。

「まさひでさん、いないよ」
「え?おられぬのですか?」
「うん。あにうえがいっちゃってから、まさひでさんがきたの。だからかんじゅろ、まさひでさんにおしえてあげたの。“あにうえ、あそびにいっちゃったよぅ”って」
「それはそれは」
「かんじゅーろはおにわであそびたいなぁ」

勘十郎はザーザー降りの庭を見て、指をくわえた。
すると勝家がサッと立ち上がった。

「もちろん、勘十郎様がそうなさりたいのならば」
「いいの?」
「はい」
「わぁいっ!」

再び廊下にまで駆け出して、勘十郎はびしょ濡れの草履を見下ろした。
すぐにぬれちゃうから、かんじゅうろこれでいいや…と思いながら足を伸ばすと。

「わっ」

手が滑り、雨の庭に顔から突っ込む…ことにはならなかった。
勝家の手がにゅっと伸びてきて、勘十郎を抱きかかえたのだ。

「ごんろくありがとうっ」

目をぱちくりさせながら振り返ると、勝家は柔らかく微笑んで、左手で傘を振った。

「濡れてしまいますからね」

勝家が傘を差し掛けてくれたので、勘十郎は庭に下りることができた。
ばしゃばしゃっと水を跳ね飛ばしながら走り回っても、足元以外は全く濡れない。
高揚した気分に身を任せ、勘十郎はあっちへこっちへ走り回り、蛙を捕まえて直ぐに逃がしたり、葉っぱの裏にひっついたかたつむりをじっと覗き込んだりした。

「ごんろ、みてっ、このかたつむりさんおおきいよ!」

にっこり笑顔で振り返って勝家を見上げた瞬間、勘十郎は目を真ん丸にした。
今の今まで勘十郎は気付いていなかったのだが、勝家が風呂上がりのようにびしょ濡れだったからだ。
勝家の墨のように真っ黒な髪から、ぽたぽたと雫が零れる。
その雫は雨と一緒になって、地面にぴちゃんと落ちた。
勘十郎はうろたえた。
ぐいっと顎を上げると、自分の頭上には傘がある。
もう一度勝家を見る。
勝家の頭上には傘が無い。
勘十郎は思った。
かんじゅろのせいでごんろくぬれちゃった…。

「……ふぇっ…」
「え!?」
「…ふぇぇぇぇえええびえぇぇぇぇぇぇええええ!!」
「えっ!?ええっ!?い…如何致しましたか、勘十郎様っ!か…勘十郎様っ!?」
「ぐすっ…ぐすっ…ふぇぇえっ」

勘十郎は濡れるのも構わずどろどろの水溜りに右膝をついてできるだけ目線の高さを合わせてくれている勝家に、がばっと抱きついた。
勝家の着物も、見目の通りびしょびしょだった。

「ごめっ…ごめんなさいごんろくっ…ふぇぇ…」
「な…何がですか!?勘十郎様、あぁ、お願いですから泣きやんで下さいっ」

勘十郎の大好きな勝家の大きくて堅い掌が、宥めるようにして背中を撫でてくれている。
だが勘十郎の心は自責やらなんやらでぎゅうぎゅうに押し潰されていたので、それくらいでは泣きやめなかった。
もしごんろくがかぜをひいちゃったらどうしよう。
ごんろくがしんどくなっちゃったら、かんじゅうろのせいだ。
かんじゅろ、ごんろくをしんどくしちゃう…。

「とにかく一度、縁側に上がりましょう」

勝家は傘を水溜りの中に放置して、ひょいと軽々と勘十郎を抱き上げてくれた。
勘十郎は勝家の肩に目をぐりぐり押し付けて、すんすん鼻を鳴らして泣いた。
雨の音が、籠っている。
少しばかり遠くなった。
真っ赤に腫れ上がった瞼はそのままにそっと目を上げると、部屋の奥の床の間の壷が見えた。
勝家の手が、とんとんとんっ…と優しいリズムを刻むように勘十郎の背中を叩いている。

「………ごめんねっ…ごんろ…」
「勘十郎様は不思議なお方ですね。何も、謝られることなどなさっておられないのに」
「…ごんろ、びしょびしょ…」
「戦において雨が降れば、水練したあとのようにずぶ濡れになります。斯様な程度の濡れ具合は気になりません」
「…ごめんね」
「私の方が申し訳なく思っております。勘十郎様に雨がかかってしまいました」

勘十郎は腕を伸ばして勝家に密着していた体を少し離してみた。
確かに、勘十郎の体の前面は勝家の濡れた着物で湿っていた。
勝家の顔を窺うようにちらっと見上げると、勝家は眉を下げて心底申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
勘十郎は困ってしまった。
ごんろくをかなしくさせちゃった。

「かんじゅろ、ぬれてもだいじょぶだよ!かんじゅろ、つよいこだもん。かんじゅろ、あにうえのおとぉとだもんっ」

目をグシグシっと拭って、にぱっと笑う。
すると勝家も微笑んでくれたから、勘十郎は今度はホッと一安心した。

「あぁ、勘十郎様!」
「?」
「雨が止みそうです」

勝家の着物の合わせ目を握り締めてそこに皺を寄せたまま、勘十郎は顔をグイッと後ろに向けた。
雨は絹のように細い線になっているし、音も滝のザババババ…ではなくなっている。
勘十郎の場所から空は見えないが、きっと雲が切れて青い部分がちらちら覗いているに違いない。
庭が明るくて、光の筋が幾本も幾本も立っている。

「わぁっ」

なんだか心がポカッと気持ちよくなって、勘十郎は勝家の胸から飛び出した。
縁側に立ち、軒下から空を見上げる。
すると…。

「ごんろくっ!ね、きらきらしてるーっ!」

空に凄く綺麗な光の半円がある。
ぼーっと空で光っている。
勝家が横に来てくれるまでに、勘十郎はその光の色を数えた。

「ひとぉつ、ふたぁつ、みぃっつ、よぉっつ、いつぅつ、むーっつ、ななぁつ…」
「虹が出ましたね。二本もですか」
「にじ?」

キラキラしている七色の光を空の深い場所と同じ色をした瞳に映し込みながら、勘十郎は疑問符付きの言葉を言った。
勝家が“雨が急に上がって太陽が光ったら、光の悪戯で七色の帯が出るのですよ”とわかりやすく教えてくれた。

「にじさん、きれぇっ」

勘十郎は虹を初めて見た。
とっても綺麗だ。

「かんじゅろ、にじさんほしいなぁっ」
「欲しいですか?」
「うんっ。でもにじさんはおそらのだいじなおともだちだから、かんじゅろはがまんするの」
「勘十郎様はとってもお優しいですね」

勝家が隣で片膝をついたので、勘十郎は勝家の方を見た。
微笑む勝家はもはや絹のような雨さえ降っていない庭の方へ手を突き出し、掌を地面に向けた。
細やかな雨が、その掌から生まれる。
ささーっと細く小さな音を立て、既に水溜りが出来ている地面に落ちてゆく。
勘十郎はそれを忙しく目で追っていたのだが…。

「あー」

目の前に空に浮かぶ虹よりもうんとミニチュアな虹が現れたので、歓声を上げずにはいられなくなった。

「にじさんのあかちゃん!」
「触りますか?」

勘十郎は暫し七色でありながら半透明の光の帯を見つめていたが、やがて、ううんと首を横に振った。

「かんじゅろ、にじさんのあかちゃん、ちかくでみてるだけでうれしいのっ」

勘十郎はドキドキと心の臓を高鳴らせながら、紅潮した頬を緩ませてにっこり笑った。
すると勝家も優しく微笑んだ。
勘十郎は隣の勝家の腕にトンッと頭を置いた。
湿り気を帯びた着物はぺちゃっとしたが、それでも、勘十郎はとっても落ち着いた。
















きらっと、頭上で虹が光る。
僕の前でも光ってる。
僕らの人生も、こんな風に七色であったらいいなぁ。



空に、虹ふたつ。

僕の前にも、虹ひとつ。




















end
















*********

「虹、ふたつ」じゃなく「虹、みっつ」になりました(笑
勘十郎は虹を欲しいと言いながら、結局見てるだけで幸せです。
吉法師は虹が欲しいと言い張り、今は無理でもいつか絶対に手に入れる気です。






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