虹、ふたつ-吉法師と政秀-

[吉法師と政秀]














こっそりと城を抜け出すのは大得意だったが、吉法師は今、困っていた。
先程まで晴れていたのに、急に、ポツポツポツ…と雨が落ちてきたのである。
梅雨なのだから覚悟はしていたが、あまりに急すぎる。
どこか逃げ込むところがないだろうかとウロウロしている間にも、太陽のように真っ黄色の羽織は湿り気を帯びてずっしり重くなってゆく。
…と。

「若!」

どこからともなく現れた平手政秀に、吉法師は濡れた頬をヒクつかせた。
なんだって、こんなところに目の上のたんこぶが!
今日はバレないように脱出できた筈だったのに。
だが、暴言は吐けなかった。
雨が今や滝状態になっているのである。

「あちらに洞窟がございます」

政秀に従うなんてかなり悔しいことだが、濡れ鼠の吉法師は政秀に先導させて駆けた。
濡れた草で足を滑らせ、ばちゃっと転ぶ。
政秀が駆け戻ってきて吉法師を助け起こそうと両手を伸ばしてきたが、吉法師はその手をキッと睨んでから助けは借りずに立ち上がった。
泥水と草の汁で、体の前面はもうひっちゃかめっちゃかだ。

「若、こちらです」

政秀がまた走り出したので、吉法師はその後に続いた。
やがて政秀が言った通り大きな洞窟が大口を開けているのが見えてきた。
吉法師と政秀は、その中に駆け込んだ。
くしゅんっ!
大きなくしゃみが石壁にガンガンガンッと幾重にも反響し、ますます大きなくしゃみとなって吉法師の耳に返ってきた。

「若、お待ちください」

吉法師は頷かず、ましてや声に出して返事をするなんてことはせず、ぶるっと震えてからその場に座った。
体温を求め、自分の膝を抱く。
政秀は洞窟の奥に入って行った。
そして吉法師が思っていた以上に早く戻ってきた。
両手に細い木の枝や落ち葉を抱えている。

「この場所を雨宿りに使う者が多いらしく、奥に火起こしの材料が揃っているんですよ」
「……」

“別にてめぇなんざお呼びじゃねェんだ”と意地悪な気持ちがあって吉法師は一言も口を利いてやらないのに、政秀は柔らかな笑顔を浮かべている。
政秀は吉法師と向かい合うように地面に腰を下ろした。
火の種を作ることなど政秀には造作もないことだったので、火は直ぐに、二人の間で燃え盛った。

「若、濡れた着物を脱がねばなりません」
「……」
「若、拗ねていないで」
「……」
「…ふーっ…」

“なんだよ。ため息なんかつくくらいイヤなら、来なきゃよかっただろ”と、恨みつらみを込めた目で政秀を睨む。
朱色にメラメラ燃え盛る炎の向こうで、政秀は自分の羽織を脱いでいた。

「若、羽織を脱いで下さい。私の物と交換致しましょう。私の物はあまり濡れていませんから」
「…いや。お前のダサい」

遂に口を利いた。
悪口に違いないのに政秀がやけに嬉しそうにはにかんだので、吉法師は首筋がむず痒くなった。
吉法師が押し黙ると、政秀は炎をぐるりと回ってきて、吉法師の隣に腰を下ろした。
少しだけ尻の位置をずらしたが、吉法師は政秀の傍から逃げたりはしなかった。
別に逃げるのが格好悪いから…とかではない。
政秀に脱がされる前に、吉法師は自ら羽織を脱いだ。
自分で着物を脱げないなんて幼子扱いは御免だ。
脱いだ太陽のように明るい黄色の羽織をべちゃっと政秀の顔面に投げる。
政秀はそれを取り、火の近くに置いてから、吉法師の肩に自分の灰緑色の羽織を被せかけてきた。
大人しく、吉法師はそれに包まった。
後はもう、再び言葉がなくなった。
雨がドバババババ…と滝の様な勢いで地面を打つ音が、先程の吉法師のくしゃみ同様壁に反響して何倍もの音量になっている。
そしてパチッパチッと、吉法師の好きな炎の爆ぜる楽しげな音。
この二つばかりが、吉法師の耳に重く優しく響くだけ。
“じぃの炎”のお陰でまず爪先から温かくなってくる。
その熱はゆっくり膝まで上がり、腹まで上がり、胸まで上がり…吉法師の全身がポカポカするまで、然程時間はかからなかった。
吉法師は大きく欠伸をしてから、半開きの涙目で右隣をちらっと見た。
前かがみになった政秀が、吉法師の目が醒めるような黄色の羽織を炎に翳して乾かしているのが、見えた。
吉法師は政秀の左腕の袖をぐいっと引いた。
政秀の上体を僅かだが後ろにズラせる。
吉法師は政秀の体に頭を持たせかけた。

「仕方がないお方ですねぇ」

と、政秀の微笑の気配がする。
それが炎より温かい。
吉法師はますますきつく自分の体に政秀の羽織を巻き付けて、目を閉じた。
落ち着く雨の低音と。
ワクワクするような炎の爆ぜる高音と。
政秀の、匂いと熱とー…。





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「若」
「……」
「若!」
「…むにゃ」
「若、晴れましたぞ」
「…はれた…?」
「晴れました」

吉法師はぶんぶんっと頭を振って、脳みそを覚醒させようと頑張った。
目を薄く開けると、目の玉が白く弾ける光に焼かれたような感じがして、思わず悪態を付く。
政秀に“そのような言葉を!”やら忠された気がしたが、吉法師は気にしなかった。
苦言はいつものことだし、それを聞かなかったふりをすることもいつものことなのだ。
目は直ぐに慣れた。
吉法師はバッと立ち上がったが、一歩前に踏み出した瞬間つんのめって顔面から地面に激突しそうになった。
咄嗟に両手を突き出し、間一髪。
吉法師はすっかり忘れていた。
政秀の長い羽織のせいで、蹴躓いたのだ。
吉法師はまた悪態をつきながら羽織をぐしゃぐしゃっとたくし上げた。
こうして政秀の皺ひとつなかった美しい羽織は暫し使い物にならなくなるのだが、吉法師にとってはそんなことはどうでもいいことなのだった。
パタパタッと洞窟の入口まで駆ける。
そこで一旦立ち止まって空を見上げると、驚いたことにー…。

「じぃっ!じぃじぃじぃじぃじぃっっ!!」
「そのように連呼なさらずとも、聞こえておりますよ」

ぱちんと指を鳴らして火を消した政秀が、吉法師の黄色い羽織を小脇に抱え、吉法師の後ろにぬっと現れた。
政秀を振り返ることなく、吉法師は短い人差し指で空を指した。
二つの半円が、空にくっきりとその七色を浮かび上がらせている。
虹だ。
しかも二つも出た。
大きな虹と、小さな虹だ。
吉法師はワッと飛び跳ねて、下草を踏み締めて洞窟から飛び出した。
足元は、全体に薄く水が張っている。
たくし上げているといえども、政秀自慢のお洒落な灰緑の羽織はドロドロである。

「じぃ!にじっ!!」
「えぇ、えぇ。綺麗ですね」

微笑む政秀をちらっと一瞬だけ振り返り、吉法師はまた空を見上げた。
首の根元が痛くなるくらい、じぃっと見上げた。

「じぃ!おれ、にじが欲しいぞっ」
「また無茶なことを…」
「獲れ!」
「ですから、無茶なことを…」

吉法師はまた政秀を振り返ったが、今度は一瞬では無かった。
政秀をじっと見上げて…。

「ん」

唇を真一文字に結び、両手を伸ばす。
政秀はきょとんとして、“ですから、虹は獲れませんよ”と言った。
吉法師は頬をぶーっと膨らませて、そのフグのような顔のまま、ますます両手を政秀に伸ばした。

「……」
「……」
「……」
「……あぁ!成程!」

“やっと若様の言いたいことがわかったか!”と出来る限り胸を反らせてふんぞり返り、吉法師はしゃがんだ政秀の首根っこにしがみ付いた。
そのまま、吉法師の視線はいつもよりずっと高い場所まで昇る。
そして更に高いところに昇る。
吉法師は政秀の真っ黒な髪を左手で引っ掴んだ。
政秀が痛みで呻くのも、気にしない。
そうして空いている右手を空に…七色に輝く二つの虹に伸ばした。

「だめだ!高さがたりねぇぞっ。届かねぇっ!」

笑いながら言うと、政秀もまた、笑って言った。

「大丈夫ですよ。若はいつか、虹より良い物を手に入れることができるんですから」

すかさず、吉法師が言葉を返す。

「天下とか?」

政秀は何も言わずにカラカラ笑うだけだったが、吉法師にはそれが肯定の言葉に聞こえた。
















きらっと、頭上で虹が光る。
僕らの人生も、こんな風に七色であったらいいなぁ。







空に、虹ふたつ。

君と僕の、虹ふたつ。





















end




















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神夜様から頂いたネタを少々拝借いたしました…。
吉法師と政秀。
吉法師は気分屋なので、政秀を無視したり突き飛ばしたり甘えたり…忙しい子です(笑

ちなみに「虹、ふたつ-勘十郎と勝家-」制作なうです^^


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