Snow memories A




「天下!」
「てんか?」
「おう。天下」
「てんか…」
「オレ様が作るんだから、天下だろ」
「さぶろうさまが、つくるから?」

吉乃には意味が分からなかった。
“てんか”がなんなのか、知らない。
食べ物なのか、何か出来事なのか、遊び道具の名前なのか…。
吉乃はちんぷんかんぷんなのだが、それさえどうでもよかった。
吉乃にとって、三郎が言うことの全てが真実だった。

「さぶろうさまがつくるから、このこは“てんか”?」
「そ、天下」

三郎が、雪だるまの天下から、くるっと吉乃の方を向いた。
真正面から見つめられた。
黄土色のとってもとっても明るい瞳の中に小さくて幼い自分が映り込んでいるのを、吉乃は見た。
そのとき、ドォンと強く思った。
大きくなりたい。
“さぶろうさま”と同じくらいの年頃になりたい。
もっと、ちゃんと、そんな風に小さな子に向ける様な種類の優しさをはらんだ瞳じゃなくて。
もっと、ちゃんと、別の意味の…。

「もうひとふぶき、来そうだな」

“おれのじぃが、こんな雲のときは大雪が降るって教えてくれたんだぜ”と笑って、三郎が行った。

「送ってってやるからな」

ぴょんと岩から下り、囚われの部屋から連れ出してくれたときのように、三郎は背を吉乃に向けた。
あのときとは別の躊躇いが、吉乃の小さな体を取り巻いた。
この背に負ぶさると、絶対にポカポカと温かい。
でもこの背に負ぶさると、三郎とのお別れが近くなる。
もっとずっと一緒にいたいのに。
もっと…。
…だが、三郎はやっぱり強引だったので、吉乃は結局三郎の背にくっついた。
その背はやっぱり、予想していた通り、温かかった。





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窓枠を跨ぎ、吉乃は部屋に帰ってきた。
緋色の襟巻は、まだその細くて短い首にくるりくるりと巻きついている。
三郎は直ぐには立ち去らなかった。
しばし庭の雪を丸めて頭上に投げて、それをひょいっと避けて一人遊びをしていた。
吉乃がその様子を窓枠に手を掛けてじぃっと見ていることに気付くと、こちらを見てニッと笑ってくれた。
吉乃は、その笑顔がとても嬉しかった。
それに窓枠に雪玉を何個も何個も並べて、触れることができるようにしてくれた。
このまま時が止まればいいのに…と、吉乃は瞬間瞬間、常に思っていた。
が。
どこからか、人の声がした。
吉乃にはその人が言った言葉が聞き取れなかったが、三郎は聞き取ったらしい。

「じぃが呼んでる!用事、終わったんだなっ」

三郎は嬉しそうにダンッと飛び跳ねて、作りかけの雪玉を庭の木にぶんと投げてぶつけた。
雪玉は砕けて落ちて、元から白い地面と同化した。

「おれ、帰らねぇと!」

三郎は本当に嬉しそうだった。
きっとじぃというおひとのことがだいすきなんですわ…と、吉乃は思った。

「またいつか、一緒に天下を作ろうなぁ」

“じゃあな、姫”と片手を上げて、雪に足跡をつけて立ち去ろうとする三郎を、吉乃はなんとかしてこの場に留めたかった。
もっと一緒にいたいのに。
もっと…。

「さぶろうさまっ!」
「なんだよ」

三郎は、ざすざすと後ろ歩きで戻ってきてくれた。
三郎の茶色い髪に白い雪が降り積もり、吉乃には、それがなんだかとても綺麗に見えた。
…吉乃は、鼻の奥がツンと熱く痛くなってゆくのを感じていた。
紫の瞳に並々と涙が溜まり、落ちた。
外気よりも温度の高いそれは、頬を流れるとき、お湯のように温かかった。

「あのね…あのっ…」
「……」

僅かな時間一緒にいただけでも三郎がせっかちな人なんだとわかったから、吉乃は三郎が“もう行く!”と唸っていなくなってしまうのではと恐れた。
が、三郎は去らなかった。

「ひめ…ひめを、およめさんにしてくださいっ…!」

もう、それ以上何も言えなかった。
喉の奥がぎゅうっと詰まって、声が出なくなってしまった。
泣いている自分が嫌で目をごしごしこする。
すると。

「泣いてるときに目をこすると、余計に真っ赤になっちまうんだぞ」

“じぃが言ってたぞ”と、三郎の優しい声。
吉乃が手をそっと離すと、ずっと近くに三郎がいた。

「おれの襟巻持ってていいから、それで目ぇ拭け。泣き虫」

そう言われても拭く気になれなくて、吉乃はぎゅうっと長い襟巻の端っこを抱きしめた。

「おれ、もう行くからな」
「さぶろ…さま」
「おれが迎えに来たときわかるように、襟巻はちゃんと持ってるんだぞ」
「…え?」

三郎はもう、吉乃の方を見ていなかった。
左の方へ走ってゆく。
さっき、声がした方だ。
吉乃は窓枠に手を掛けて、うんと体を突き出した。
ぎりぎり、三郎の黄色い背中が見えた。

「きっと…きっとおよめさんにしてくださいっ!!」

三郎は何も言葉を返してくれなかった。
だが、右手をサッと、挙げてくれた。
三郎の背中は、吉乃のいる場所からはすぐに見えなくなってしまった。
…見えなくなってしまっても、吉乃はずっと、窓枠に手を置いたままだった。
もう、鼻の奥は熱くないし痛くもない。
頬は涙のせいではなくて、別の意味で熱くなっていた。

「さぶろうさま」

大きくて。
温かくて。
優しくて。
格好よくて。
素敵な人。

「…ひめ、さぶろうさまがすき」

雪は少し強くなって、牡丹雪は粉雪に変わっていた。
明日の朝はきっともっと積雪が増していることだろう。
吉乃は雪が大好きになっていた。
元々好きだったが、もっともっと大好きになっていた。
もっともっともっともっともっともっともっともっと、大好きになっていたのだった。





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吐く息が白く立ち昇る。
雪が、天からちらつき始めた。
穏やかに微笑む吉乃姫は、その濃い紫の瞳には全く似合っていない古い緋色の襟巻を巻いて、庭に佇んでいた。
今年も冬が来た。
あの日から何度の冬だろう。
今年も、冬が来た。

「吉乃や」

父に呼ばれ、振り返る。
心配そうに眉を下げた父が、手招きしていた。

「寒いのに、あまり外に出ていてはいけないよ」
「大丈夫ですわ。吉乃、雪が好きなのです」

吉乃は手にハーッと息を拭きかけ、空を見上げた。
と、その時。

「すまない、誰かいないか?」

若い男の声がした。
男慣れしていない吉乃は驚いて、父を見た。
父は直ぐに家来を呼び、門の方へ様子を見に行かせた。

「一体全体、何だと言うんだ。…吉乃、こちらへいらっしゃい」

ここは父上の仰る通りに致した方がよさそうですわ…と考えて、吉乃は父の方へ行こうとした。
が、そうする前に、家来が大慌てで駆け戻ってきた。

「殿!殿…殿!大変なことでございますっ…!」
「なんだ?一体何があったのだ!」

家来の後ろから、恐らく先程の声の主に違いない、男が現れた。
男の明るい朱色の瞳が本当に美しくて、吉乃は驚いた

「お…織田様が…」
「織田?…真かっ!!」
「織田?父上、織田様というのはー…」
「おれのことだよ」

朱色の瞳の男が脇に退き、別の男が現れた。
黄土色の瞳、派手な黄色い羽織を無造作に羽織っていて、口元には微笑みを携えている。
何より、見事な茶筅に雪が降り積もっている様は、本当に綺麗だった。
そう、本当に…。

「…え?」

記憶の糸が、するすると過去の想い出を引っ張ってくる。
三郎と名乗った少年は記憶の中でキラキラと笑っている。
今、目の前にいる茶筅の男と、全く同じ笑顔だ。

「……三郎…さま…?」

茶筅が、揺れた。

「迎えが遅れてごめんな、姫」

“お前の名前聞きそびれて、どこの屋敷にいたのか忘れっちまってたんだ”と、茶目っ気一杯に笑って。
吉乃の前まで歩いてきた茶筅の男は、吉乃が首に巻いた緋色の襟巻を撫でた。

「おれは織田上総介信長。お前の名前を聞いてもいいか?」

襟巻にあった手が、吉乃の頬へ触れる。
その感触によって、吉乃は自分が泣いていることに気付いた。
目をこすろうとすると、信長はニヤッと笑った。

「言ったろ。目ぇこすったら、もっと赤くなっちまうんだぞ」

あぁ、この人は本当に三郎様。
待って、待って。待って、待ち続けた、三郎様だ。
泣きながら吉乃は、微笑んだ。

「わたくしは吉乃と申します」
















“一緒に天下を作る”

その約束は、今も、これからも、生き続けるのですね。





「お待ち致しておりました、大好きな雪の中で」





吉乃が白い息を立ち昇らせて笑って言うと、信長も、笑った。


















end
















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我が家の吉乃はほぼ創作キャラクター。
いや、実際裏設定として史実通り、吉乃は一回結婚してから夫に先立たれて実家に帰ってきたっていうのがあるんですが…。


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