美濃を盗る話 A




痛みで涙目の卜全の言う通りだった。
一鉄は何度か竜興から仕打ちを受ける重治に手を貸しているが、脅しはされても実際に罰が下されることはなかった。
竜興は無能と言われども、実のところはそうではない。
一鉄が抜ければその穴を織田に攻め立てられる…と、そのことをわかっている。

「それは貴殿らも同じであろう」

一鉄がそう言うと卜全はニヤリと笑い、守就は小さく頭を下げた。
それは当然である。
稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就の三人は斎藤家老衆の中でも美濃三人衆と呼ばれる大身の家老だった。
切ることはまずできない。

「全く…嫌な感じだよな」

もう木の実を投げ付けられるのはごめんだとばかり、卜全は目一杯声のボリュームを絞っていた。

「俺や安藤のオッサンがいたら止められるからって、俺らを会議に出させないように別の仕事を申し付けるんだぜ。グズだわあいつ」
「しかし不幸中の幸い。一鉄殿がいらっしゃった」

正直なところ、一鉄はあまりこの場にいたくなかった。
卜全が主の悪態をつくからである。
そういう行為は一鉄の武辺者的な精神に反するのだ。
だから一鉄はむすっと表情を曇らせながら言った。

「儂にも仕事はあり申した。しかし偶然にも早く終わりましてな」

明らかに苛立ちを含んだ声色だったのだが、卜全は気付かなかった。

「何にしてもお子ちゃまのおままごとにはついていけないな。俺だって部下を抱えてんだ。このままこの調子が続くなら、身のふり方を考えないと」
「身のふり方?」

一鉄は眉をひそめた。
まさかとんでもないことを言うのではあるまいか…と息を飲んだが、そうはならなかった。
とんでもないなんて安い言葉では片付かない、鈍器で後頭部を殴られたが如き衝撃が、一鉄を襲ったのである。

「織田に降るか竜興ぶった斬るか…そういうことは考えとかないと駄目だ」
「何をッ…!」

“馬鹿なことを!”
一鉄は息を詰めて跳び上がり、卜全の襟を掴んで背中から床に叩き付けた。
怯む卜全の腰を跨いで覆い被さり、今にも殴りつけん勢いでその体を揺すった。

「臣下が主を裏切るなど、信義に反する!あってはならんことですぞッ!!」

鼻息も荒くまくし立てる。
しかし卜全は怯まなかった。
怯むどころか挑戦的な目で一鉄を睨み上げてきた。

「じゃあ従うかよ!俺の可愛い部下は先の戦でな、あいつに見捨てられて全滅した部隊にいたんだ!あいつは助けようとすれば助けられた。でもそれをしなかった!」
「それはっ…」
「笑いやがったんだぞ!“駒は王を守る為に死んで当然だ”って…下卑た顔で笑いやがったんだぞっ!!」

それば事実だった。
一鉄も聞き及んでいる。
そして卜全が重臣から百姓足軽まで、自分の部下を慈しむ男だと、一鉄は知っていた。
一鉄とて、卜全の気持ちは痛いほどよくわかる。
わかるがー…それとこれとは話が別だ。

「堪えなされよッ…氏家殿っ…」

そう言うしかなかった。

「貴殿の無念はよくわかるっ…しかし…かようなことを言うてはなりませんぞ…!」
「その通りです…」

一鉄がそのか細い声がした方を見ると、声の主は胸に手を当てた重治だった。
今はもう、顔色は白くなかった。

「卜全殿…誰がどこで聞いているかわかりません…。貴方の身が危なくなる…」
「……そうだな」

“熱くなりすぎたわ”と反省する卜全を見下ろし、一鉄もようやく我に返った。
卜全から退き、その手を握って引っ張って座らせてやった。
卜全が申し訳なさげに頭を下げてきたので、一鉄も同じようにした…その時。

「成程」

また、一鉄の部屋に来訪者が来た。
一鉄が廊下の方を見ると、廊下の壁に男が一人、腕を組んでもたれかかっていた。
聡明そうな広い額と流れる髪、目は切れ長で口元には小さな微笑を携えている。
足はすらりと長い。
色男だった。

「不破殿か…」

一鉄は表情は変えなかったが、内心“よくない”と思っていた。

「光治、聞いたか」

声を詰めながら守就が問い掛けるのを、一鉄は聞いた。
不破光治はククッと可笑しげに笑った。

「氏家殿が我が殿を斬るとかなんとか」
「卜全はかようなことを本気で考えてはおらんぞ!」

守就が気色ばんだ声を上げた。

「御安心を。竜興様にお話しするつもりはありませんよ。今のところは」

飄々と言ってのける。
光治は壁から背を離すと、一鉄に向かって礼儀正しく頭を下げて部屋に入ってきた。
そして未だ座ったままの重治の前で立ち止まった。

「俺はアンタの様子を見に来ただけだ。他のことに干渉する気は無い」

鋭い目が心底気に入らないと感情を込めて重治を見下ろしているのを、一鉄は口を結んで見ていた。
竹中重治と不破光治は恐ろしく仲がよくない。
二人の領地は隣接していて、互いの父の代から所領争いが堪えなかった。
今でこそ刀を交えるなんてことはなかったが、それでもどれだけ偶然であっても顔を突き合わせることを二人は極端に嫌った。

「残念ながら死んではいなかったようだな」
「御蔭様で、私は元気です」
「全くだ」

光治は竜興そっくりの人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、くるりと背中を向けた。
廊下に出た光治に卜全が“それだけかよ”と声を掛けると、振り返った光治が口端を吊り上げた。

「私は竜興様の御命令で竹中殿の様子を見に来ただけです。稲葉殿は部屋の主なので必要はありませんが、貴殿や安藤殿が竹中殿の元にいらっしゃったことは竜興様にはお伝えさせて頂きますよ」

それだけ言って、光治は行ってしまった。
言葉の意味は裏を返せばつまり、やはり竜興には卜全の大変よろしくない発言を伝えない…ということを表していて…。

「…悪い奴ではないんだけどな…」

卜全がぽつりと言った言葉に、一鉄も頷いて同意した。
確かに光治は悪い男ではない。
ただなかなか立ち回り方が周りに理解されない損な役回りなのだ…と、一鉄はそんな風に思っていた。
人によっては光治のことを“主に媚を売る武士らしくない男”と評すこともあるが、一鉄は光治にそんな判断を下してはいない。
確かに光治は異常なまでに竜興に気に入られていて重治とは大違いだが、それは光治に気に入られる程の能力と斎藤に対する忠誠心があるということである。
一鉄は光治を好意的に思っていた。
刺々しい発言は多いが、光治の斎藤への忠誠は武辺者のそれだと確信していた。

「大した男だよ、あいつは」

守就が言った。
どうやら安藤殿も不破殿が嫌いではないらしい…と一鉄は感じた。
実は先の美濃三人衆に一人加え、西美濃四人衆と例えられることもある。
その加えられる一人が、不破光治だった。
だから一鉄だけでなく卜全も守就も、光治を心底嫌いにはなれないし、寧ろ好意を抱いてもいるのだ。
そして…。

「…あのようにできる男がいつまで御屋形様のような御人の陰に隠れているのか…」

そう言う重治もまた、好き嫌いは別にして光治のことを認めているのではないか…と、一鉄は思わずにはいられない。
そしてそう思いながら、引っ掛かりもした。
一同は光治がいなくなった廊下をじっと見つめていたが、一鉄だけは重治の横顔を見ていた。
日焼けを知らないような雪のように…女子のように真白な肌は、もう青ざめてはいなかった。

「…竹中殿…?」

一鉄は、竹中重治というこの斎藤家きっての名軍師が何か突拍子もないことを考えているのではあるまいか…と思ったが、それが一体なんなのかということは全くわからなかった。








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