世界の音を貴方とともに聴いてみたい

[吉法師と政秀]










「やだ」
「駄目です」
「やだ」
「逃がしません」
「やぁぁぁだぁぁぁあ!!」
「脱走禁止ッ!!」

傅役平手政秀が茶髪の少年吉法師の襟をむんずと引っ掴み、ズルズルと引きずる。
このパワフルな傅役は若干六歳の暴れん坊若君様をまんまと捕獲して、部屋に連れ戻し、挙句漢詩文を並べた文机に向かわせることに成功した。
逃亡阻止率は只今七割弱。

「簡単ですからね、全て書き取りして下さい!」
「めんどうくさい、ばか。阿呆」
「はいはいわかりました」

吉法師が逃亡する恐れがあるので、政秀は吉法師の直ぐ隣に座って孫子を読み始めた。
吉法師は暫くぶつぶつ言って机に筆で落書きをしていたのだが、観念したのかやがて書写を始めた。
が、こういうことに対する集中力は蟻ほどもない吉法師のことである。
直ぐに飽きて、政秀が読む書物を覗きこんできた。

「何よんでんの?」
「孫子です。若にはまだ難しいですよ」
「ふざけんなっ!おれ様にできねぇことはねぇっ!教えろっ!」
「…全く…」

政秀は短めな溜息を吐いたが、しかし苦笑を携えている。
そうして語りかけるように、吉法師に教えてやるのだった。

「孫子は十三篇あります」
「じゅうさん…と」
「“百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり”」
「ひゃくせん…ぜん…くっする…」
「私が大事だと思うのは“兵は国の大事にして死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず”です」
「くにのだいじ…そんぼー…」
「若のお好きな戦略のお話などをさせて頂きますと、道天地将法の五事などが特に大事であり、“道”は国の政治の陣頭に立つ我々と百姓らが一致団結して立ち向かうということを説いており…………若?」

熱く語っている間に、陽は赤く燃え上がって部屋の中を照らしていた。
吉法師の手には筆が握られたままだったが、その筆先がぴったりと和紙にひっついていたせいで、黒い染みがじんわりと拡がっている。
吉法師の頭は政秀の腕に寄りかかっており、すぴすぴと寝息を立てていた。
ほら、難しいのだからこうなることはわかっていたのに…と、政秀はやっぱり苦笑いを浮かべた。
が、染みのできている和紙には、うつらうつらしながら何とか聞きとったのだと思われる“ぜんのぜんなるもの”やら“国のだいじにしてしせいの地”やらの文章が、まるで蛇がのたくったような字で書かれてあった。
ぐっすりと、頬を桃色に染めて眠る我儘で高慢で自己中心的な小さな小さな若君。
意地っ張りで直ぐに怒る、幼い幼い若君。
政秀は優しく微笑んで、その茶筅を結った髪を梳いた。
よしよしと頭を撫でても、もうすっかり夢の中の吉法師は起きなかった。
政秀は、もう一度、吉法師が書き散らした文字を見た。
この少年は、将来どんな男になるのだろうか。
尾張を背負って生きてゆくのだろうか。
強く強く、真っ直ぐに歩んでゆくのだろうか。
一緒にいられたらいいと思う。
一緒生きて、一緒の音を聴けたらいいのにと思う。
世界の音を一緒に聴けたなら、どれだけ幸せだろう。
全く一緒の未来を見つめ、一緒の音を聴けたらー…。

「…なんて、出来る筈もないのですが」

笑って、また頭を撫でる。
吉法師は僅かに身じろいで、気持ちよさそうにきゅぅっと目を強めに閉じた。
何かむにゃむにゃ言っているが、言葉にはなっていない。

「貴方を守って死ぬるべき私に、貴方と同じ音を聴く資格などないですよ…ね」

それでも夢を見る資格はあるのだ。
政秀は大きな欠伸をして、夕焼けに染まる庭をぼんやりと見つめた。
夕食までまだ少し時間がありそうだ。
誰かが起こしに来るまで…さぁ、若君と同じ夢を見て、同じ場所に立ち、同じ景色を見て同じ音を聴こうではないか。

うつらうつら、心地よい眠りに誘われる。
政秀は瞼を閉じて、直ぐに寝息を立て始めた。









End









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君と僕の戦国計画。の参加作です。
吉法師とじぃののほほんなお話。

参加了承くださってありがとうございました♪

そして実は相互先のはちなな屋さんのおかげでこの企画に巡り合えたので、佐倉様のおかげでもありますっ。
ありがとうございましたっ!!


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