浮かれている。彼の背中を見るだけで分かる。
使い勝手の悪そうな古めかしい台所をあちらこちら動き回るたびに、熊の室内履きを引っ掛けた細い足首がスキップでもしだしそうだ。
というかなぜ裸足なんだ。このジジイは歳に似つかわしく冷えやすいのだから何か履けばいいのに、2月だってことを忘れてるんじゃないのか。
いや、忘れてはいないんだろう。忘れてないから、このバカみたいに古くさい平屋は甘ったるい匂いに包まれてるんだ。


読みかけの本を開いたまま炬燵の天板に放置して、僕は居間から芭蕉さんの姿を眺める。
何もかも二十年以上前から時が止まったような家具の中、浮きまくっている最新型のテレビからチョコレートのCMが流れてきた。
明後日は火曜日だ。14日、バレンタインデー。恋する男女にとっては絶好のイベントだ。チョコレートを贈って愛を確かめる、安上がりだが、打ってつけの日。
その準備を、芭蕉さんは僕をほったらかして進めている。

「時々あむぁーいものも作るんだよ、ってね?話したら」

芭蕉さんが振り返る気配がして視線を本に戻す。ろくに読んでいないページの端に指を掛ける。

「ゼミの子たちがさぁ、食べてみたーいって!交換してくれるって言うんだよねぇ」
「それで手作りですか、オッサンが。気色悪い」
「っかー!心配しなくても君にはやんないから!安心してなよっ」

紙をめくる指に力が込もりページの角が折れた。誰がそんなもの要るか。
彼がチョコレートを湯煎している経緯なんてこの目で一部始終見ていたから知っている。そのゼミには僕も所属していて、そのやり取りは僕の目の前で繰り広げられたのだから。

ああクソ、アンタも分かってるはずだろうが。それとも、女子大生にちやほやされるのは恋人の存在が記憶から消え去るくらいに嬉しいことだったのか。
あの日のクソジジイの舞い上がった表情を思い出して無意識に舌打ちが出た。


「あー…曽良君、夕ご飯の材料足りないからちょっと買ってくるね。どうせ食べてくでしょ」

いつもと変わらない言い回しも苛立った頭で聞くと少々腹立たしい。
返事をする気になれなくて読んでいない紙をわざと音をたてて捲るが、芭蕉さんは気に留めずに身支度を整え、さっさと玄関に歩いていってしまう。
それにますます胸の辺りがささくれ立つ。子供っぽい悪循環だと頭の片一方では分かっていてもどうにもしようがない。

「冷蔵庫のチョコ、食べちゃダメだからねー」

……誰が食うか。





遅い。彼が出掛けて一時間、いい加減帰って来ても良い頃だ。
芭蕉さんがいない部屋でテレビを眺めていたが、苛立ちは紛れるどころか募るばかりだった。
台所に目をやり、炬燵から抜け出て立ち上がる。腹いせにチョコレートを全て食ってしまえば彼は泣くかもしれない。泣きわめいて僕を真っ直ぐ見つめて、僕の名前を何度も呼んで詰るだろう。

悪くない。八つ当たりの対象を見つけて、僕は内心嬉々としながら冷蔵庫を開けた。
目の前には製氷皿のような型が三つ、チョコレートが流し込まれている窪みは熊の形をしているらしい。
全部取り出してシンクに並べる。芭蕉さんが気に入っている妙に覇気の無い熊だ。こんなものをゼミ生にやろうとしてたのか。
ためらいが微塵も無くなった僕は一つずつ万感込めて噛み砕いていった。





「ただいまー」

炬燵に戻っておよそ十分後、家主の間抜けな声がようやく響いた。
ビニール袋をがさがさ言わせてコート姿の芭蕉さんが居間を覗き込む。袋はやけに大きく膨れて重そうに見える。この食材の量なら泊まっていっても差し支えないように思う。

「チョコ食べてないよね?」
「食べました」
「…は!?」

大きな声をあげた芭蕉さんは早足で台所に向かい、もう一度叫び声らしきものをあげる。

「溶かして固めただけじゃ今日び手作りって言いませんよ、芭蕉さん」
「言うよ!あー!!全部食いやがった!もう君単位なし!」
「職権濫用ですね」

芭蕉さんは泣かなかったけれど僕は機嫌がたちまちに直っていくのを感じていた。熊型を食い尽くす時、明日中には作り直されるだろうチョコレートの材料がすでに台所の目立たない隅に積んであるのに気付いたのだ。
そして、なぜ芭蕉さんが二日前、僕が来る日曜日に用意を始めているのかにも思い至った。
散乱した空っぽの型を片付ける彼の足元がまたスキップしだしそうに見えるから、この推測は間違ってないだろう。


目を向けた先にはチョコレートの試食をして顔を綻ばせるリポーター、テレビに映る特集の数々と張り合えるくらいに浮わついた自分の頭を確かに認める。
冷蔵庫が閉まる音がする。もう間もなく彼が戻ってくる筈だ。
そうしたらまず炬燵に入ろうとするのを邪魔して、それから体温を移してやろう。

愉快な想像に胸まで浮き立つようで、早く来い、と声無く呟いた。







20120214 芦葉


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