開花
ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。
今日の仕事も無事に終え、夕暮れと日没のわずかな狭間をしみじみと感じていた。川辺にそよ吹く風はまだぬるい、だけど、さらりと肌を撫でて行く。そろそろ蒸し暑い季節が去ろうとしているからだろうな。サクラの木の葉も、すっかり熟した色を帯びていた。
そうして蝉の声に耳を寄せているうちに、いつしか、去年の夏の終わりを思い浮かべていた。
あいつと知り合って、一年弱だったな。モリヤさんが時期が終わってしまうから、と売れ残った線香花火を分けてくれたから、見せてやろうと誘ったんだったな。今思えば、手に入れた瞬間にあいつの顔が浮かんでいたのは笑えるよ。
丁度今日みたいな涼しい夜で、風もおとなしくて、二人しゃがみこんでじっと小さな火を垂らしていたんだ。それをじっと見詰めて綺麗だとため息をついた名前。時折激しく散る火花に照らされて、その顔がよく見えたから、今でも鮮明に思い出せる。小さなものであんなにはしゃいでさ、初めて見たってさ。さして珍しいものでもないのによ。一つ二つで終えるつもりが、もっともっととねだられてしまって。持っているだけ全て火をつけ終わる頃、あたりは妙に静かになっていて、その時に気がついちまったんだ。自分の心臓の音が酷くうるさい事に。
――それから一年経ったのか。
あの時自覚しかけた事はとうてい気のせいなんかではなかったよ。どうしたってあれから、あいつの姿を見かけるたびに胸がうるさく訴えてくるんだから。
そしてこんなに早く、夜が来てしまう。紺色の空が太陽を飲み込んで、あの夜がもう一度。オレは鼻をこすってから深呼吸をした。
ほら。すぐに聞き慣れた足音が聞こえて、高鳴りが収まらず、もういちど深く息をつく。
「お待たせ、ヒナタ」
いつだって待ち焦がれていたその声。
夜の訪れとともにやってきたのは、他の誰でもない。ほの暗くなった夏の夜に、優しく笑う名前。目の前の光景は、そっくりそのままあの日を切り取ったみたいだ。出会った季節よりいくらか日焼けしていて、きっと着替えてきてくれたんだろう、泥一つついていない綺麗な服で。目に止めるには暗すぎるはずのまつげが、どうしてかキラキラして見える。その瞳でオレに笑いかける姿に、可愛らしいやつだな、って。
そう。去年も、同じ事をぼんやり考えたんだ。違うのは、オレの中に芽生えた……
知らず知らずぐっと握りしめていた自分の拳には、たいして暑くもないのに汗がにじんでいた。そんな事知る由もなく名前が隣に腰掛ける。すぐそばで木の椅子がすこし軋んだ。咄嗟に、肩が触れ合ってしまいそうだということを意識してしまって、いくらか体をずらした。洗剤かなにかのいいにおいが心地よい夜風にのって、さっきこすった鼻をかすめる。きっとオレ、赤い顔をしてるよな。日没を待ち合わせにしてよかったよ。
オレは姿勢を正して気を取り直すと、名前に向き直した。
「おつかれさん、遅くに呼び出してごめんな」
「ふふ、去年もこんな事あったよね」
ぽつんと、覚えてたのか、と返した。
それは名前に向けたものかもしれないし、独り言みたいなものでもあった。あー。覚えているんだとして、いったいどんな風にあの日を思い出してくれているんだろうな。
「そうだな。」
表情をうかがいながら、隠しておいた真新しい花火を手に取る。緊張のせいか笑顔以外のなんにも分からなかったけど。
「今日はどうしたの?」
「今年も手に入ったんだ、名前、好きだろ?」
目の前に大きな束になった花火を差し出すと、名前がぱあっとにこやかになる。あの日、最初の火の玉が音をあげ始めたときと同じ顔だ。
「こんなにいっぱい、どこで手に入れたの! モリヤさんに聞いたら、今年は不都合があって入荷しないって」
「ああ、だから、すこし遠い村に出かけたついでに買っておいたんだよ。」
あんまりぐいぐいと捲し立ててくるものでオレの返事も慌てたものになってしまう。まだヒグラシは強く鳴いているし、人の足音もどこからともなく聞こえてくるが、今日のオレは自分の鼓動にしっかり気づいていた。
ただ話していると今にも取り乱してしまいそうで、慌てた調子のまんま立ち上がってしまった。
「そっか、ありがとうヒナタ」
ロウソクを立てて火をつけるオレの背中に向かい、明るい調子で言われる。自分の嬉しい気持ちが手に取るように分かる。それが不安定な緊張感と混じり合ってなんとも言えない。地面が草履からどんどんはぐれていくみたいだ。そんなふわふわした足元に、蝋の温かい光が灯る。
「去年より沢山あるから、さっさとはじめようぜ」
元気な返事をした名前がオレの隣に屈み込む。小さな火種を囲むのだから当然すぐそばに。二人の足元が同じようにオレンジの光に照らされて、そこだけが違う世界のようだ。
「じゃあ、せーので火付けるよ」
手渡した花火を嬉しそうに掲げて宣言した名前にオレも続く。
「せーの」と二人で言ったけれど、お互い慎重に火をつけようとするものだから示し合わせも無く小声の合図になってしまって、笑った。
花火の先端には小さな火のしずくがぶら下がって、どんどん大きくなって行く。耳を澄ませばジーと音がして、いまにもはじける準備をしている。
「ほんと、緊張する」
「……オレもだよ」
体を強ばらせた二人は、まだ幼い灯りを見守りながら言う。やがてちりちりと火の粉が散りだして、それはたちまち大きく広がって行った。
「やっぱり綺麗だね」
いつかのように感嘆のため息をついた名前の顔が、火がバチバチと弾けるたびに浮かび上がる。
「もう、これがないと夏が終わる気持ちになれないかも」
「じゃあ、来年も一緒にやろうぜ」
声に出した後、ちょっと大胆だったかなと思ったけど、きっとオレの気にし過ぎだろう。
名前はただ手元をじっと見詰めながら頷いた。その視線の先で、綺麗に火が咲くたびにじゅくじゅく火のしずくが育っていく。その、うつむき加減の眦はオレの目を奪って離さない。
――やっぱり、綺麗だ。
そうだな、おまえの見せる表情ひとつひとつにオレは惹かれて行ったんだ。気付きが芽生えてからは、自覚するごとにどんどん引き込まれていってしまうよ。
「あっ」
オレは早々に火を落としてしまった、名前ばかり気にしていたせいだ。火の玉はぽたりと落ちて行き、すすけた跡が残った。
「あはは、下手になった? ちゃんと見てなくちゃ」
けれどその笑った振動で、もう一つの火の玉もそっと垂れ落ちていった。
そして、ヒナタのせいだよとクスクス笑う名前。次の花火をごそごそしだしたと思ったら、またひと笑いした。
「本当に沢山あるね。二人だけなのに」
そう言いながら一本、オレに手渡す。
「そ、その量でしか売ってなかったんだよ。別に全部やりきらなくてもいいからな」
本当は、すこしでも長く隣に居たくてこんなに買ってしまったんだ。もちろんそんな事軽々と言える訳が無く、しれっとした顔で言い訳したつもりだ。だけどこの胸はつくづく正直だ。さっきの花火のようにじゅくじゅくと音を立てて、今にも破裂しそうだった。
「全部やろうよ、ヒナタと二人で話す機会もめったにないから、さ」
名前が空いたほうの手で、耳に髪の毛をかけ直しながら言う。
なんだよそれ、まるで花火をするよりもオレと話すのが嬉しいみたいじゃないかよ。そんな言い方されたら良いように考えちまい、抑えが利かなくなりそうだ。
「……そうかよ」
「ヒナタは、」
静かに名前を呼ばれたけど、名前は続きを飲み込んでしまった。気の早い秋の虫の綺麗な鳴き声がそれに続いて、却って沈黙が静かに感じられた。
オレは蝋がゆっくり下りていくのをじっと見ていた。ただ、二人の間で蝋燭の火がゆらゆらしている。どちらも、手に持った花火に点火しようとはせずにいた。
「あのね」
あらためて名前口が開かれた。内緒話みたいな、すこし緊張したようにも聞こえる小さな声だった。
「私も、花火を買ってヒナタを誘おうと思ってたんだ」
そのとき、心地よい風がそばを駆けて行った。蝋燭がつくる二人の影が揺れる。どうしてそんなに、含みある声で言うんだ。確かめたくて名前へと視線を持ち上げた。そこには確かに、照れくさそうな表情がぼんやり見えた。オレがまだ知らない顔。去年の記憶には無かったものだった。鼓動がばちばちと身体中を弾けて行く。もう、外まで散り広がって、名前に届いてしまいそうだ。
「オレ、は」
オレはお前の事が好きだ。
ずっと念っていた言葉が、のどからこぼれ落ちかける。でも、言いかけてやっぱり止めてしまった。
「オレは……絶対、また来年もおまえを誘う予定だぜ」
またぱあっと笑いかけてくるのかと思ったのに、名前は恥じらいを秘めたような面持ちのまま、そっと口角をあげた。ちくしょう、そんな顔も可愛いなあ。そういう気持ちで自然と、同じ仕草を返した。
その時、聞こえてくるドキドキという音が、オレのものか名前のものかわからなくなったような気がした。
(気のせい、じゃないといいのにな。)
また来年もこの場所で、たおやかな微笑みと弾けるような鼓動を思い浮かべるのだろう。そのときどういう想いで振り返っているのだろう。そして、来年はここでどんな顔を見る事が出来るんだろう。まだ知らないけど、きっとそれはとても綺麗だ。
「次、つけよっか」
名前の言葉を口切りに、何度も何度も花火をたらして、色んな話をした。
それは、ヒグラシが一匹も鳴かなくなっても、紺色の空が黒く変わっても、一足早い秋の虫達のさざめきの中でずっと続いた。
その間中ずっとうるさく訴え続けるこの胸の高鳴りが、大きく育ちすぎて耐えられなくなって……そして、落ちてしまうのは、きっともうすぐだと思った。
fin.
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