うきふね




 そう前々からじゃないけれど、ぼくはこぶ付きの衝動に駆られていた。

 面倒くさくて、じゃまで、だけど付ける薬もないんだ。これがどういうものなのか、知っているような気もして、知らないような気もする。
 確かなのは、はじめて芽生えたものであることだった。自分の中でいつまでもイヤなものが拭いきれないことは、今までになかったから。こんなにもどかしく、乾いた想いには身に覚えがない。抑えども、抑えども、まぎれてしまわないから、飢えはつのるばかりだ。そう遠くないうちに、自分が知りえないぼくがのどから飛び出してしまいそうで、怖かった。
 やり場のなさに強く足をにじると、やや湿った砂の音がいやに響く。こんなこと、気に留めた事も無かったのに、ね。

 ねえ、教えてよ。
 今日は?明日は?その次は……いつまで、ぼくは子供のままで居られるの?


「兄ちゃん、そろそろ家にもどろう」

 暫しだんまりしていたぼくに、ヤイチが無邪気に投げかける。ふと時間を取り戻したぼくの景色に映り込む、その曇りない表情に、おそろしく距離を覚えた。さらにぼくを覗き込み、はにかむヤイチ。こんな素直な顔、今のぼくは持っていないかもしれないなんて、ぼうっと考えてしまいながらうなずく。

「そうだね、ヤイチ。暗くなってきたもんね。」

 明るい仮面をかぶり直して、ヤイチの先を歩き出した。
 家まではそう遠くないけれど、その道のりのあいだだってぐるぐると目眩がしそうなほどによけいな事を考えなければならなかった。ぼくはどれだけアレに支配されているんだろう。どうやら底のあるものではなさそうだ。どれだけ悩まされるかは時間の問題だな。
 じゃり、じゃり、足下から伝わる砂の音。二人で歩いているのにぼくのものだけがどこか重く冷たく感じられた。

「兄ちゃん、あそこ……」

 小さな手で袖口を引かれて振り返ったのは、ぼくが小さくうつろな息を吐き出すと同じ時だった。向こうに見えた影に気付いたなら、それはすぐさま駆け寄ってきた。
 体のすべてが一様にざわめく。でも、ヤイチを振り払って遁げるわけにもいかず、ぼくはそこへ立ち尽くした。

「……名前ねえちゃん、おでかけ?」
「うん、少し用があって。二人はもう帰るのかな?」
「おなか、すいたから。」

 ぼくは口を開いたならばおぞましいなにかが喉から飛び出してしまいそうだから、微笑む振りをして二人の会話を見守っていた。
 そうしている間だって、ホラね。近くに居るとどんどん。ごうごうと渦巻くおかしなモノが、波打つ鼓動にからみついてくるんだ。
 だからひたすら、ヤイチだけを見ていた。せめてできるだけ視界に入らないように。なのに、そのにおいや、声とか、色んなものが……おかしいくらい気になっちゃうんだ。強く引き寄せられるなにかに、歯止めをかけるので精一杯だ。こんなにも近寄りたくて、こんなにも近寄りたくない。一体ぼくはどうしてしまったのだろう。
 たまらなくなって咳払いをすると、二人は一度黙ってしまった。大丈夫のしぐさをすると、ヤイチがなんでもなく口を開く。

「ヒナタにいちゃんに、会うの?」

 名前お姉さんは、気恥ずかしそうに笑ってヤイチのおでこを軽く撫でた。

 ぼくの仮面に一筋、ひびが入った。今、ごくりと喉が鳴った音を、きっとぼくだけが聞いただろう。
 そんなのは聞かなくたって知っていたこと、それでも……
 顔を赤く染めたヒナタお兄さんへの表情と、かがんでおでこを撫でてやったヤイチへの表情。相反するものが混在しているような、裏表、生々しい。
 ぼくは何か鋭いものにつらぬかれたような心地にいてもたってもいられなくって、今すぐどこかへ行ってしまいたかった。
 けれど、先に去ったのはあの人だった。浮き足立った様子で、ヒナタお兄さんのところへと。あんなに消えてしまいたかったのに、その背中が小さくなっていくほど追いかけたくなるのはどうして。

 否。そんなの決まってるじゃない。……追いかけて、抱きとめてしまって。そして、



 ――里の誰もが寝静まった頃。
 ぼくはこっそりと家を抜けた。どうしたって家族と眠る気分にはなれなかったんだ。
 そこには、黒い空に星が無限に連なっているだけだった。しばらくして目が慣れて、馴染みある景色が浮かんできたって、虫の鳴き声と、穏やかな川の流れ、そして自分が地面を踏む砂利の音しか聞こえない。
 ぼくは物陰に腰を落とし、今日何度目かのため息をついた。

 ひたすら、あの声や香りが何も無い闇夜に浮かび上がる。目をそらしたはずの、あの姿かたちさえも。
 それはそれは一途だけど、イヤらしくって身勝手なものでもある。好きなものでも、嫌いなものでもある。

(どうしてお姉さんは”お姉さん”なの。どうしてぼくは“子供”なの。どうしてヒナタお兄さんと、)

 だから、いけない。いけないのに。ぼくは行き場の無い気持ちをひとりで慰めはじめた。
 思い出されるあの人の全てに、ひそめた息が重なって、まるですごくいけないコトをしているかのようだ。いや、本当はこんなことをするのだっていけないんだ、ぼくは間違ってる。それなのに、手が止まらない。
 もう、頭の中はぐちゃぐちゃだった。裏腹に、かってに、規則的に動く右手。素直に堅く腫れてしまったソレをとらえて、上に、下に、飲み込み続けている。
 歯止めが利かなかった。あの人の事を考えてしまうほど、気持ちよくなってしまうんだ。もっと激しくしてしまう。してはいけないと思うほど、ぶつけてしまう。心臓とソレが、いっしょに激しく鼓動しているのを触れた肌ごしに感じた。

(どうしてヒナタお兄さん“なんか”と。)
(抱きとめてしまって、そして、二人だけで。
 否。……あの人をぼく一人だけで、)


 ぼくは、自分の手の平に一番イヤなものを出してしまった。とたんにそのおぞましい感触が伝わって、ひどくおろかだとおもった。まだ、大人とは言えないこの手のひらに、気持ちの悪いドロドロしたものが広がって、滑稽だとおもった。熱く、堅くなったあれが触覚をおかした記憶も、皮膚にありありとのこってしまっている。
 どうしてか、ヤイチを撫でたときのあの人の顔が、ハッキリ見てもいないのに一枚の絵のように思い出された。
 やるせなくて、肩が落ちた。

 ねえ、教えてよ。
 いつまでぼくは、子供のままでいられるの? ぼくは、こうしてしまうのがどういう事なのか知っても良いの?
 とうとう子供の仮面が割れてしまったその時に、自分がどんな顔をしているのか、想像することも恐ろしくてたまらないんだ。


 ぼくが造りだしたあの人の影は、それらに答えるより早く、静かに闇夜へと沈んでいった。
 そして夜はぼくだけをさみしく残して、また虫の鳴き声と静かな川の流れ、湿った砂利の音たちに支配されていった。




fin.

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