モッカ



 まだ涼し気のある初夏の朝、オオルリか何かの美しいさえずりが草木を縫う道を歩く。やがて開けた場所に出れば、ぽつりぽつりと野の花の群れが見えたから、寝ぼけ覚ましにぴったりだろうと花つみをはじめた。いつの間にだか、雨が降ったのだろう。屈めた膝が冷たくて、湿った土や草のにおいがすぅっと鼻にかおる。花たちの色どりと相まって、丁度良い刺激。さまざまな自然のさざめきも助けてくれて、五感はようやく目覚め始める。

 青や黄の花弁が手のひらを彩り始めたころ。ある気配に、摘んでは束ねを繰り返す手を止めた。私を振り向かせたのはロッドの足音だった。
 彼は歩みをやめてそこへ佇む。少し距離はあったけれど、静かに緊張したなにとも言えない表情がわかる。私の二本の腕は自ずから、青い茎を握ったまま、堅く自らの体を包んだ。そんな私に、ロッドが歩み寄る。目が合っているのかいないのか、とにかくお互いを見つんだまま、距離が近づく。

「おはよう。」

 彼は、いつもの通りさわやかな挨拶をくれた。笑って返したつもりだけど、きっと強ばりを解けきれない表情はバレバレだったんだろう。目を逸らした視界の端にあるブルーの瞳が瞬く間ほど憂いた後、再びなんでもないように輝いたのを見たから。その瞳の持ち主は私の隣にそっと屈んだ。

「露がついて綺麗だね」

 私の手の平の花束を見て、彼が言う。その拍子に腕を振るってしまったら透明の粒がいくつかしたたり、肌を冷たさが刺した。少し驚いた私に、彼が小さく笑った。続けて、鼻をすすった。

「雨、降ったの?」
「うん。夜中にすこし」

 ――鼻声は気のせいで無かったのか。
 ごめんなさいと言いかけて、やめてしまう。言葉を詰まらせたままロッドを見ると、そこにあるのは笑顔ではなかった。

「名前」

 その、おもたいまつ毛につんざかれたまま、髪をそっと撫ぜられる。
 名を呼ばれて、触れられて、蘇るものは百も千もあった。たったの一晩だけのこと、けれどその全て。

 つい昨晩のこと。
 彼に、抱いてと乞うたのだ。何度も、何度も名前を呼ばれ。優しく、あつくあの肌に抱かれ。それから私は、雨音にも気付かないまま彼を暗闇に追ったのだ……望んで愛されたのに。あんなに愛してくれたのに。

「じゃあボクは、散歩の続きに行くから」

 今にも壊れそうなはにかみは儚い美しさを感じさせた。何も言えぬ私を咎めず、またすこし鼻をすすった後でロッドは優しく去っていった。
 ぼうっと見送るしかできない背中が、記憶と重なる。

“抱かれさえすればあなたを愛せると思った、けれどやっぱり、あの人が忘れられない。”

 そういう風に思い出される自身の台詞が、あまりに身勝手だった。都合のいい言い訳を続ける私へ慰めまでくれ、やわらかに消えた背中は、彼は、優しすぎたのだ。
 今更、愛された体があつい。のしかかられた重みを体が憶えていて、体をかさねた時のようにぞうっと震えが起きる。どんなにロッドを感じても、今の私は一人だ。けれどあの遠くに見える背中は、昨日も独り、何も言わず、雨にうだれ、消えたのだ。



 とうとう視界からロッドの姿が失せた。腰を起こした足元に、茎の滲んだ野花が散っていることに気付く。手のひらには青い汁が薄く染みていた。この鳥のさえずり、川のせせらぎも、そういえばずっと聞こえなくなっていた。
 ああ。私、ロッドしか見えてなかったじゃない……昨日の雨だれの音を思い出しながら、しばらくそのまま立ちつくした。




fin.





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