『漂流者』6


「と、時計!」
突然の大声に振り向けば、わなわなと震え、目を見開いてこちらを指差す真田の姿があった。
大袈裟なまでに明らかな動揺に、片倉は己の迂闊さを悔やまずにいられない。すっかり失念していたが、今この部屋で時計の存在はご法度なのだ。
昨日あれほど念を入れたはずなのに、まさかこんな失態を犯すとは。せめて、彼に気付かれぬように回収するべきだったと、後悔ばかりが渦を巻く。
徹夜明けの頭はこうも働きが鈍るものなのだと、彼は身をもって実感した。
「すまねぇ、真田。俺のミスだ。」
詫びを入れるのに、先輩後輩は関係ない。誠実な動作で頭を下げた片倉に、真田は慌てて頭を上げさせた。
申し訳ないが、今はそれどころではないのである。
近寄ってよくよく見させてもらった時計は、なんの変哲も無い普通の腕時計。規則正しく時を刻む秒針に、真田は胸に溜まった息を一気に吐き出した。
紅潮した顔には、何にも勝る喜びの色が浮かんでいる。
一連の動作の意味が解らず首を傾げた片倉は、もう一つ、彼の頬に不思議なものを発見した。
「お前、頬をどうした?」
問い掛けに視線を上げた真田は、「頬?」と繰り返して首を傾げた。
気付かないものなのだろうか、と疑問に思いながら、己の右頬を指で叩く。仕草を真似た真田は、頬に指がついた瞬間、走った痛みに声を上げた。
壁に飾られた鏡を指し示してやると、真田は慌ててその正面へ駆けていく。そして覗き込んだ鏡の中に、頬を赤く腫らした己の顔を見つけ、言葉を失い呆然と立ち尽くした。
鏡の中の自分の頬に触れると、背後から、「まるで殴られたみたいだな」ととどめの一言が投げられた。

そう、これはまさに殴られて出来た傷だ。
しっかりと覚えている。
昨夜、三時を告げる時計の音が聞こえて。
目を覚まして。
掛け軸がもぬけの殻になっていて。
夢かと疑い、己の頬を殴ったのだ。
殴った痛みは確かにあった。
殴った痕も、残っている。

夢ではないのだ。
なに、ひとつとして。

「か、片倉殿っ!夢まぼろしではございませぬゥ!!」
気分の高まりそのままに声を上げると、片倉はやかましいとばかりに耳に手を当てた。
徹夜明けの頭に、突然の大声はしんどいものがある。眉間のシワは、先程よりも一層深まった。
「一先ず飯だ。…で、解かるようにちゃんと説明しろ。」

真田は何度も頭を上下させ、片倉に続いて部屋を出た。
一体なにからどう話そうか。今日の朝食はなんだろうか。
胸は、異様なほどに高鳴っていた。


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