『漂流者』3


その日の夜。もう遅いから泊まっていけ、との片倉の言葉に甘えさせて貰った真田は、掛け軸を見て頭を悩ませていた。
聞けば、彼のマンションで時計のない部屋は、洗面所とバスルームの他にないのだという。
出来れば時計のない部屋に置かせて貰いたかったのだが、まさかそんな湿気の多い場所に掛け軸を置く訳にもいかない。
別に、祖父のように浪漫や夢を語るつもりはない。しかし彼の人柄が、祖父が守り抜いた決まりごとを破ることに抵抗を持っていた。
「や、やはり今からでも家に帰って…」
「馬鹿を言うんじゃねぇ。」
手にしたカバンをあっさりと奪われて、ついでに無防備な膝裏を軽く蹴られる。大した衝撃でもなかったのだが、ひざかっくんの要領で、真田の身体は簡単に床に転がった。
「こんな時間に帰せるか。この部屋の時計を外してやるから、掛け軸と一緒に大人しく眠ることだな。」
「かっ、重ね重ね申し訳ない…!お気遣い、感謝致します!」
片倉は壁にかけてあった時計を外し、ご丁寧にHDDレコーダーの電源コードまで引っこ抜いた。(液晶ディスプレイに時刻が表示されていたのだ。)
そして広げたままの掛け軸に今一度目をやると、足早に部屋を後にした。
今はとにかく、一刻も早く自室のパソコンにかじり付きたかった。どんな些細なことでも、何でも良い。絵に関する情報を一つでも知りたくて仕方がない。
「じゃあな。」
そして、急ぐあまり、彼は見逃していた。
机に積まれた本のその陰で、一本の腕時計が時を刻んでいるのを…。


時刻は夜十一時過ぎ。既に照明の落ちた部屋の中で、真田はじっと目を凝らしていた。
暗闇に慣れた目は、壁にかけられた掛け軸を真っ直ぐに捕らえた。
昔、一度見たきりだった掛け軸。あの時の衝撃を、自分は今も忘れていない。
(片倉殿も、某と同じ気分だったのだろうか…)
白い肌。赤い髪。怒りに歪んだ顔。着物から覗く、筋張った細い手足。
この絵が幽霊画だと言われた時の、納得と、違和感。正反対の感情が自分の中に沸き起こる、不思議な感覚。
(この男、幽霊というよりも、物の怪や鬼の類に近いような…)
更にいえば、生きた人間であるような気さえもする。
見れば見るほど、不思議な魅力に惹かれる絵だ。

けしてこの絵を時計と同じ部屋に置かなかった祖父。
浪漫だと便利な言葉を使っていたが、その実、確かめるのが怖かっただけではなかろうかと思う。
幽霊が出るのが、ではなく、何も起こらないのが、だ。
先刻の自分が、まさにその心境だった。時計と一緒にして、幽霊が出てこなかったら、きっと物凄く気落ちしただろう。それこそ、失望にすら近い落ち込みかもしれない。
『この男に会えるかもしれない』。その可能性を無くすのが、とても怖かったのだ。
「某もまだ修行が足りぬ…。」
くぁ、と大きな欠伸を一つ。いつの間にか、まぶたは重力に逆らえぬほど重たくなっていた。
ドアの隙間から漏れる明かりは、いまだ片倉が起きていることを告げている。先に寝るのは申し訳ない。頭を左右にブンブンと振り、眠気を追い出そうとするも、効果はいまいち現れない。
抵抗むなしく、意識は眠りの波へとさらわれた。


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