8.出会い

へろへろのパンチを右頬に当てられた。
最初は、それがパンチだなんて気が付きもしなかった。手が頬に当たり、グ、と爪を立てられて、そして初めて、これは攻撃なんだと理解した。
小さく弱りきった体で攻撃をしてくるなど、見上げた根性だ。
しかし、攻撃はそれ即ち敵意。ダメージはないものの、顔を一発殴られて、爪を立てられたのは紛れも無い事実。
軽く怒鳴りつけてやろうかと思ったら、そいつは既に意識を失っていた。
『おい。』
声をかけても、ぴくりとも反応がない。前脚で体を押せば、ころりと簡単に横に転がった。
ツヤのない毛並みに、ガリガリに痩せた体。あばらの浮いた胸は、不自然に大きく上下している。あまりに惨たらしく、痛々しいその見た目。
まとわりつくのは、紛れもなく訪れる死の臭い。

『…我の縄張りで、勝手に死ぬことは許さぬ。』
慎重にくわえた体は、想像以上に軽かった。
目的地までの最短ルートを考え、足早に移動を開始する。
公園。黒猫のいる庭。神社の駐車場。抱えたのは、大した重さの荷物ではない。
ものの数分で、彼は目的地である己の棲み家へと辿り着いた。

そこは、古くて大きな日本家屋。
やや高めに切り揃えられた垣根の間を、ヒデヨシはわざと音を立てて揺らしながらくぐった。
その先に広がるのは、陽光に照らされた暖かな裏庭。家主である竹中半兵衛の姿は、予想通り、縁側にあった。
彼はなにやら難しい病気を患っているのだが、今日は調子が良さそうだ。顔色がよく、表情も明るく見える。
安堵しながら歩みを進めると、ヒデヨシに気付いた竹中がにっこりと笑った。
「おかえり。…どうしたんだい?今日はずいぶんと早いじゃないか。」
『まぁな。』と答えようとして、ヒデヨシは口が塞がっていることを思い出した。返事は出来そうにない。
無言のままに柔らかな芝を蹴って駆け寄れば、竹中が不思議そうに首を傾げた。
「なんだい?そんなに慌てるなんて、君らしくない。」
足元にやってきたヒデヨシを抱き上げて、そこで初めて、彼はヒデヨシが何をくわえているかに気が付いたようだ。
慌てて手を差し出すと、手のひらに、そっと小さな体が横たえられる。
ヒデヨシは子猫をぺろりと舐めた後、真っ直ぐに竹中の瞳を見上げた。
『半兵衛。すまぬが、こいつを助けてやってはくれぬか。』
人と猫、言葉が解るわけはない。
けれど、竹中は力強い頷きを返してみせた。
彼は幾度か角度を変えて子猫を眺めた後、近くにあったタオルを引き寄せて、その上に子猫を乗せた。
「少しの間、見ていてくれないかい?」
今度はヒデヨシが頷く番だ。ニャア、と、力強い鳴き声が投げられる。
彼らは、まるで言葉がわかるかのように意思の疎通を行っていた。
「頼んだよ。」
竹中はヒデヨシの頭を一撫ですると、忙しなく外出の準備を始めるのだった。

華奢な背中を部屋の中へと見送ったヒデヨシは、子猫にそっと鼻を近づけた。日の当たる場所にいるからか、先程よりも少しだけ暖かくなっている。…気持ち、死の香りも薄まったような気がする。
とはいえ、その体温は平熱と比べればまだまだ低い。
ヒデヨシは大きな体をくるりと丸めると、小さな体にぴたりと寄り添った。
『…。』
ふと見れば、子猫はいつの間にやら目を開けていた。わずかながら意識もあるようで、ダークブルーの瞳が、うつろに、けれど確かにヒデヨシを映している。
『…寝ていろ。』
ごわついた毛並みを整えながら、短く告げる。残念ながら、彼は子猫の扱いに長けていないのだ。
少しでも安心すればいいと、ほのかな期待を寄せながら優しく舐めること。ヒデヨシにとっては、それが精一杯の方法だった。
子猫はゆっくりと目を閉じて、やがて静かに寝息を響かせた。

数分後。仕度を終えた竹中は、眠る子猫をそっとキャリーの中へと移動した。
次いで、慣れぬ子守りを終えたヒデヨシもまた、子猫とは別のキャリーに入れられる。
「もうすぐワクチンの時期だし、ケンカ傷もあるし。ヒデヨシも一緒に、ね。」
『…うむ。』
子猫を保護してもらった手前、ここでごねる訳にはいかない。向こうも、ヒデヨシが大人しく従うと解ったうえでの行動だろう。
相変わらずの策士だと、ヒデヨシは感心と諦め混じりに溜息を漏らした。


やい、子猫。名も知らぬ子猫。
半兵衛が、お前を病院へ連れて行くぞ。
ついでに、我は注射を打たれるらしい。
恩着せがましいことは言わぬが、死ぬ、などという無礼は許さぬ。
我に一撃をくれた、その根性を思い出せ。

その目にもう一度、力を宿らせてみろ

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