26.立花とミツナリと大谷A

灰色をした毛玉は、鞠が弾むように茂みの中から転げ出た。
何事かと目をこらせば、その正体が猫であることに気が付いた。別段、興味をひかれる存在ではない。
しかし、相手は違うようだ。
真横にあったベンチにひらりと飛び乗ったかと思えば、紫がかった瞳でこちらを見上げてきた。じろりと高い位置から睨みつけてみたが、逃げもひるみも怒りもしない。望んだリアクションは何一つ返って来なかった。
変わった猫もいたものだ。
人間でさえ、好んでこの身に近付く者はいないというのに。
「物好きなものよ。」
猫に、悪さをするような素振りは見られない。好きにさせておけば、いずれは飽いてよそへ行くだろう。
追い払うことを早々に諦め、一つ溜息を吐いた。
我が身が人の目に異質に映ることは知っている。ここならば人もいないだろうと日差しに誘われて出て来たが、ずいぶんと妙な客人に出会ったものだ。
見上げた空の眩しさに目を細めた時、ガサガサと不自然に鳴る茂みに気が付いた。
仲間でもいたのかと視線を巡らせれば、そこからは猫とは似ても似つかぬ、立派な体躯をした男が慌てふためきながら飛び出してきた。
まこと、今日は妙なことの起こる日である。



「手前は立花と申します。その、先ほどの発言は本当に…。」
「なに、もうよい。我も少々卑屈が過ぎた。気に病むな。」
全てを承知の上で存分にからかい、楽しませてもらったから。…なんて本心はおくびにも出さず、男は大谷だと名前を告げた。相手が名乗った以上、自分もそうせざるを得なかったのもあるが、からかいがいのある男に多少興味を引かれたのもまた事実。
袖振り合うも他生の縁。時には気まぐれを起こしてみるのも悪くはないだろう。
「大谷殿、ですね。…あぁ、そうそう。こちらはミツナリです。」
「ほう。良い名前よな。」
紹介された猫は相変わらず、大谷の隣の椅子を陣取っている。
元来、動物というものにはあまり思い入れがない。そのためか、常ならば触れてみようなどという気は微塵も起きないはずだった。
そう。元来ならば、そうなのだ。
だというのに、今の心境はどうしたものか。
淡く、深い紫色をした瞳に見つめられ、まるで引きつけられるように手が動く。包帯の巻かれた指先は、既に子猫の頭上まで移動していた。
立花は、大谷の行動を微笑みをたたえて見守っている。
触っても、良いのだろうか。
触り、たいのだろうか?
ちらつく欲望と己の行動に戸惑っていると、早く触れろとばかりに子猫が鳴いた。
恐る恐る手を下降させれば、白い包帯が鮮やかなグレーの毛並に沈んだ。布越しに触れた毛は、それでも十分な柔らかさを伝えてくる。
もし、直接触れることが叶ったら、その触り心地はどれほどだろうか。
「…ヒヒッ。よもや、今更この包帯が煩わしくなるとは思わなんだ。」
「さ、さようで…。」
なんと答えれば良いのやら。明らかに戸惑っている立花を他所に、大谷は続けて笑い声を上げた。ゴロゴロと控えめに響く猫のノドの鳴る音が、不思議と耳に心地良い。
ぎこちないながらも頭を撫でてやれば、音はより大きくなる。そして、不意に体を縮こませたと思った、次の瞬間。
ひらりと、小さな体は大谷の膝の上へと飛び上がっていた。

「ミ、ミツナリ!」
慌てて声を上げたのは立花だけで、大谷はポカンと灰色の毛玉を見下ろしていた。見た目以上に軽いのだなと、妙に冷静な頭で他人事のように考える。
ミツナリは足踏みをするように前足をふにふにと動かして、一人ご満悦のようだ。
「す、すみません!今すぐに下ろして…!」
「なに、構わぬ。」
膝の上の存在に不快感は湧かないし、晴天の下で草むらを駆け抜けた足の裏は、特別汚れている訳でもない。それよりも、久しく感じていなかった穏やかな感情に触れたことの方が重要だ。
包帯に包まれた手を子猫の眼前に差し出してみれば、興味津々といった様子で鼻が寄せられた。ひくひくと動く鼻は背けられることがなく、熱心にその匂いを嗅いでいる。
「やれ、ミツナリ。薬の臭いがきつかろう?」
問い掛ければ、深い紫が上を向いた。
曇りのない澄んだ真っ直ぐな目は、まるでこの身を射抜くような強さを帯びている。
己の暗い部分を見透かされるようで、心がざわりと騒めくのが分かった。思わず目を反らした自分に、自嘲の笑みが浮かぶ。
「怖い目をしやる。」
思わず本音をこぼすと、傍らの立花が眉を八の字にさせて笑った。その顔には、その鋭い目付きすらも愛おしいのだと、デカデカと書かれている。
幸せな奴だと、他意なく思う。
「確かに、少々きつい目付きだとは言われます。」
「…ヒヒッ。そうよな。我には少々恐ろしい。」
外見的な意味ではなかったのだが、わざわざ説明する必要もないだろう。
このまま言葉遊びに興じるのも良かろうと、大谷は言葉に広い意味を隠して持たせた。思惑通り、立花は言葉の裏には気が付かないで笑っている。
「ですが、ミツナリは貴殿を気に入ったようです。」
「?」
ほら、と示されたものを見れば、猫はいつの間にか膝の上で丸まっていた。先程の痛いまでの視線はどこへやら。くあ、と大きなあくびをする様は、なんとも安穏で平和な光景である。
毒気を抜かれた大谷は、思わず頬がゆるむのを自覚した。
「つくづく、変わった奴よ。」


「我はこの先の別宅で療養中ゆえ、たまの日には訪ねるが良い。茶菓子くらいは出してやろ。」
「ニィ。」
はい、是非に。立花がそう答えるよりも早く、小さな鳴き声が答えを返す。
「ぬしには、飛び切りの品を用意せねばなるまいな。」
大谷は目を柔らかく細めると、いまだ膝にある温もりに手を添えた。ごろごろと、心地よい音が耳に届く。
猫とはみなこうなのか。それとも、ミツナリだけが特別なのか。
凪いだ海のような胸中に、「我らしくもない」と独りごちる。
それでも、この日の出会いを感謝せずにはいられなかった。
ガラでもないと、知りながら。

- 27 -
[*前へ] [#次へ]
戻る
リゼ