人魚のいた村
昔々、という言葉で始めるべきか悩まれますが、人間の持っている限られた時間を考えるのならそれが適切でしょう。これは昔々に始まったお話なのです。
若狭の国には昔々よりもっと前の時代から、ひとつの言い伝えがありました。「人魚の肉を食べると不老不死が得られる。ただし、人魚を生かしたまま肉を取らねばならない」というものです。
ほとんど真実ではありますが、一点だけ違います。不老不死という部分が。どういう事かといえば、人魚の肉を食べても致命傷を負えば死にますし、年も取るのです。まぁあの時代の人間の寿命を考えれば十倍に近い年月を生きられるわけですから不老不死などと言われても仕方のないことなのかもしれません。それに確かに、傷も人間より大きなものに耐えられると思います。もちろん、心臓など急所を突かれればその人魚だってひとたまりもないですけれど。だから、不老不死になるのではなく、真実は人魚と同じ死ににくい体質になるという所でしょうか。
その人魚についても説明しておきましょう。人魚というのは皆さんご存知のとおり、上半身が人間で下半身が魚類の生き物です。魚の尾ひれを持つものが大多数ですが、まれに蛸脚のようなものもいます。今ではめっきり見かけなくなりましたが、今でも数は少ないながらに生きています。彼らは三百年の時を生き、年が十五歳を超えるとそこからの成長は非常にゆっくりとしたものになります。そして、死ぬときはすべてが泡になって消えていくのです。それが不老不死と勘違いされた原因でしょう。
さて、この人魚が物語のはじまりなのです。
人魚の少年は名を凌牙と言いました。彼は一人で若狭の沖を泳いでいました。幼い頃、ふとした不注意から広い海の中で家族とはぐれ、自分だけ海流に乗って遠くまで流されてしまったのです。そして家族とはぐれた若狭の海にようやく戻ってこれたのが十四歳になった年のことでした。おぼろげな思い出を訪ねて泳ぎ回っていると、小さな小船が近づいてくるのが見えました。小船の上には顔に大きな傷のある男。人間にはくれぐれも近づくなと子供の頃に言われた記憶はありましたが、久々に魚や蟹や海月といったものとは違う生き物を見たのがなんだかうれしくて、凌牙はそっと近づいてしまったのです。
船の男は凌牙に気がつくと、最初は驚いたという表情でしたがそれは次第に満面の笑みに変わり、凌牙に手招きしました。男は人魚という存在を知っていたのです。さらに船に近づいた凌牙に
「はじめまして、人魚さん」
そう言うと、すばやく銛を取り出し、凌牙を突いたのでした。
思わず身をよじって避けたのですが、銛は凌牙のわき腹を大きく切りつけ、慌てて逃げる凌牙の傷からは血がどんどん流れ出るのがわかります。海中にいてはきっと死んでしまう。陸へ向かわないと。そうして凌牙はとある漁村の近くの洞窟へ身を寄せるのでした。体力を使い果たした凌牙は手当てもできぬままに意識を手放したのです。
そこへ、一人の人間の少年がやってきます。名前を遊馬といい、近くの村のはずれに住んで漁で生活をしていました。両親を海で亡くしてからは彼と奉公に出て家にいない姉の二人っきりの家族でした。彼もまた寂しかったのです。いつも隠れ家にしている洞窟にやってきた遊馬は、そこで人魚を見つけ、彼が怪我を負っていることを知ると家に飛んで帰り、たくさんのものを持って戻ってきました。そして手際よく手当てし、その後は人魚が目を覚ますまで何日も洞窟で過ごしました。
数日後、人魚は目を覚まします。目の前の人間を見て刺されたことが頭をかすめ、反射的に逃げようとしますが、体が動きません。彼はひどく衰弱していたのです。初めは警戒して何もしゃべらなかった人魚も、遊馬があまりに親切丁寧に彼を介抱するのでついに五日目に名前を教えたのです。
それから凌牙と遊馬はみるみる仲良くなりました。だって二人とも寂しかったのです。それにこうして会話をしてみると、何か昔から見知った仲の様にも感じられたのですから。
遊馬は実に十日ほど家に帰らず、村にも戻らず、この洞窟から漁に出かけてこの洞窟に帰るという生活をしていました。そろそろ、凌牙も回復の兆しを見せてだんだんと動けるようになっていましたから、一度家に戻ろうと思ったのでしょうか。遊馬は洞窟から出て、村へと戻ったのです。
洞窟を出てから急に雨のにおいがしてきて、あっという間に土砂降りになりました。遊馬はいやな予感がしながらも家に戻ると、今度は雷まで鳴りはじめます。いよいよ嫌な感じだとは思ってもこの嵐の中外に出るわけにも行かず、彼は家で一晩明かすことにしたのです。
この十日あまりの間に、村では大きな変化が起こっていました。村の庄屋は三人の兄弟とその父親で暮らしておりました。父親は前から不治の病に犯されておりましたが、その父親がもう長くないことがわかったのでした。庄屋の前にはひとつ立て看板が立てられました。「人魚の肉を持ってきたものには褒美を与える」このような内容でした。庄屋の次男坊は特にこの人魚に強いこだわりがあるようでした。お気付きかもしれませんが、この庄屋の次男坊は顔に大きな傷がある男。凌牙を刺したあの男なのです。彼は決して父が大事だったのではありません。彼自身が不老不死を得たかったのです。
その庄屋の次男坊は嵐が来た時、人魚を探して沖にいました。そして、小船は嵐に巻き込まれ、死ぬような苦労しながらも彼は村はずれまで戻って来ました。そこには大きな洞窟があると知っていて、とりあえずそこに身を寄せることにしたのです。
凌牙は遊馬によく言われていました。「自分以外の人間が来たら、隠れてたほうがいい」それから、村の伝説を聞いていました。だから、ずっと身を潜めていました。ですが、庄屋の次男坊は大変頭の回転のいい男だったので、洞窟に僅かに残った生活の跡からここに何かがいることに気がついてしまったのです。そして彼は洞窟内を捜索し始めます。雨はだんだんと小降りになってきたところでした。
遊馬は家にいながらやっぱり凌牙が心配で、雨脚が和らいできたこともあり、傘のかわりに鍋を被って洞窟へと戻るところでした。叫び声が聞こえたのです。慌てて洞窟に駆け込んで、彼が目にしたのは、尾ひれを切り落とされて息も絶え絶えの凌牙と切り出した肉を持って満足そうにニヤニヤと笑う庄屋の息子なのでした。
庄屋の息子は勘違いしたのです。肉を奪いに来たのだと。だから彼はためらったりはしませんでした。彼は銛の他に、肉を切り出すための大きな包丁を持っていました。その包丁で遊馬に切りかかったのです。咄嗟に鍋で防御して、遊馬は震えながらもそこに踏みとどまりました。本能は逃げろ逃げろと叫び続けていましたが、たった一人の存在が遊馬をその場所に押しとどめたのです。
遊馬は追い詰められ、既に数箇所刺し傷がありました。それは致命傷というほどではありませんが、それでも放っておけば命に関わると思われるものでした。満身創痍の遊馬に庄屋の次男坊は包丁を高く振り上げ――。どう、とその場に倒れました。頭から血を流して。
遊馬の隣に切られた尾ひれから血を流しながら、凌牙が這ってきます。凌牙が力を振り絞って投げた拳ほどの石が、次男坊の頭に当たったのです。死ぬほどの怪我ではありませんが、それでもしばらくは起き上がってこないでしょう。遊馬はとりあえずは生き延びたのです。ただ少し怪我を負いすぎました。早く手当てをせねば命に関わります。
凌牙はぜえぜえと息をしながら遊馬に言います。
「俺はもうすぐ死ぬだろう。人魚がどんなに死なないといっても流石にこの尾ひれじゃあな。そしてお前もこのままじゃ死ぬ。だけど、お前には借りがあるし、助かる見込みもある。食え」
凌牙は切られた自分の尾ひれを遊馬に差し出します。力なく首を振る遊馬の口にむりやり押し込みます。
「俺が死んだら、この肉も溶けて消えちまう。そしたらお前も死んじまう。最後の頼みだ。頼むから、俺のために生きろ」
もう、首を横になど振ることができませんでした。泣きながら遊馬はその肉を一口、かじったのです。
凌牙は強がるように笑って。それから――。
遊馬が目を覚ますと錆びた包丁が脇に転がっていました。あとは何にも残っていません。包丁を見て遊馬は首をひねります。自分が目を覚ます間に包丁ってこんなに錆びるのか?
そして、村に戻った遊馬は自分が恐ろしく長い間、眠っていたことを知るのです。村のあるはずの場所にはなんにもなかったのですから。そして、当てもなくさまよい歩くうちに彼は凌牙を弔うために踊念仏の一団に混ざり旅を続けます。いつまでも。そう、それこそいつまでも。
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