そこにあるのは

  それは広い草原の真ん中で大きく枝を広げた名も知らぬ木の下から始まった。空は鈍い灰色で、緑の原に暗い影を落としている。凌牙は木の枝に腰掛けて、遥か遠くまで続く暗い緑の海原を見つめていた。
 息苦しい嫌な空気が漂っていて、ただただ目の前に広がるのが本物の海で無いことが悲しくて仕方がない。自分の海はここじゃない。ここには居られない。行かなくては。
 でも、どっちへ?
 わからない。だけど、ここには居られない。枝から降りた凌牙は草原をかき分けてどんどん歩きだす。
 木から見ているとわからなかったが、草原は奥に行けば行くほど草丈が高い。緩い下り坂のようで、凌牙は草の海にどんどん深く潜り込んでいく。二百メートルほど進み、どんよりした空も見えなくなった。上を見上げて一歩踏み出した瞬間、そこに地面がなかった。
 慌てて一歩引いたら、背中を強く押された。落ちながら見えたのは腕だけ。そして「さよならだ、凌牙」という声。
 ぎっしりと生えた草の間をゆっくり沈みながら凌牙はぼんやり考える。水のない海……?
 それから聞き覚えのある不愉快な声は誰だったか。気に食わない。気に食わない。気に食わない。あの声も。水のない海も。何もかもが。
 深く深く沈んでゆく。
 だんだんと暗くなり、ついに光がなくなった。深海とでもいうのか。肌を草が撫でる感覚だけが自分が沈み続けていることを伝えてくる。時折微かな音が聞こえる。何か遠くから近づいてくる。
 やがて、目が暗闇に慣れてくる。目を凝らさねば見えぬほど微かな光があちこちに蠢いている。それらが近づいてくる。カサカサという音も自分に近づいてくる。
 淡い光に囲まれる。よく見れば、それは魚や蟹や海月といった海の生き物達で、皆体の一部に光る機関を持っている。あるものは背中に、あるものは頭に、あるものはひれに。
 淡い光が集まってぼんやり明るくなったので辺りが少し見えてきた。草の生えた世界は上で見た通りどこまでも続いている。そこに光る生き物達が集まり、自分を能面のように温度のない瞳で見つめている。その目は増え続け、視界を埋め尽くさんばかりの勢いだ。
 落ちていく自分を眺めるだけの目。胸くそ悪い。
 増える目はある一瞬から興味を無くしたように一斉に散っていく。また辺りが暗くなる。
 ここがどこだろうが、どこに行くとか、もうどうでもよかった。魚類達が持っていた光るものを自分は持っていない。それが情けなくてむしゃくしゃして。
 暗闇をまだ沈み続けている。そのうち更に目が慣れてきて、随分遠くまではっきり見えるようになってきた。遠くで淡い光が蠢いている。
 いつまで落ちても底がない。疲れ果てて目を閉じた。生き物のカサカサという音が不快で耳を塞いだ。肌撫でる草が嫌でそのまま眠ってしまうことにした。寝てる間に墜落して死のうが、何かに食われようが構わないと思った。
 唐突に左腕を掴まれた。そっと目を開く。眩しい。目を細め、光を遮るように右手を伸ばす。
 人、少年? 彼自体が強く発光している。まぶしい。目が痛い。掴まれた左手を払う。
 彼はまた手を伸ばしてくる。振り払う。また掴まれる。つい力が入った。振り上げた自分の右手の甲が目の前の少年の顔面に叩き込まれるのを、ただ凌牙は見ていた。
 少年は顔面を咄嗟に抑え、険しい顔をしながらそれでも空いた手を差し伸べてきた。その手を振り払えなかった。悲しみと慈愛のこもった微笑みと目が合ってしまった。
 少年はそっと凌牙の右手を取ると自分に引き寄せた。
「戻ろうぜ」
 彼が口にしたのはそれだけだった。あとは黙って草の海を海面に向かって泳ぐばかり。始めは黙って手を引かれていた凌牙もそのうち自ら足を動かし始めた。まぶしさは気にならなくなっていた。
 草の中から頭が出るようになった頃には日は沈んでいた。星が輝き大きな月が煌々と夜空に君臨している。目の前の少年はもう光っていない。でも、彼は光ろうと思えばいつでもあの暴力的なまでの輝きを放てるのだと凌牙は思った。それは根拠も何もない直感だけれど、きっと事実だ。
「探し物、見つかったか? 」
 彼はこちらを見つめている。瞳の中に大きな月が映りこんでいる。凌牙は吸い寄せられるかのように少年の唇を奪う。彼は抵抗しない。充足感がゆっくりと体を満たしていく。そっと唇を離して凌牙は問いかける。
「お前、名前は?」
 問いながらにしてその答えを知っている。
「き――」


 夢はそこで唐突に途切れた。寝汗がひどかったが、それとはもっと異質な違和感の正体に気がついて自然に頭を抱えた。
 凌牙は洗面台で下着を洗っている。
 夢に出た少年の、遊馬の顔が浮かぶ。唇に感触が残っている気がして思わず唇をなぞりそうになる。とにかくむしゃくしゃして乱暴に手の甲でぬぐう。
 汚れが落ちた気がしなくて下着を何度も洗う。何度も何度も洗う。
 その間じゅう凌牙の頭の中では、認められないという言葉がまわり続けている。
 そうしているうちになんだか虚しくなって、下着を洗濯機に放り込んで部屋に戻る。ドアを開けて正面、窓の外には膨らみかけの大きな月が輝いている。うっとおしく思えてカーテンを閉じた。
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