ひとかけらの雫
 生まれて初めて包丁を握った。以前は平気で人を傷つけていたというのに、これは刃物だと、そう思っただけで手が震える。お笑い種である。
 一度まな板に包丁を寝かせて深呼吸。まな板の魚がこちらに向ける視線が笑っているように見える。もう一度深呼吸して包丁を手に取る。
 結局、魚は三枚に下ろされるどころかいくつものかけらとなってまな板の上に広がっていた。
 アキはひとつため息をつく。
 また、だめだったわ。
 大きく首を振る。弱気はだめ。もう二度と諦めたりしないと誓ったのだから。
それでも、もう少し簡単なものから始めるべきなのかもしれない。アキはエプロンを脱いだ。魚は晩御飯のつみれ汁になった。


 雨の日の事だった。急に降られたけれど、傘の無かったアキはポッポタイムに寄ることにしたのだった。酷い土砂降りだった。アキはすっかりずぶぬれになっていた。
 鍵は開いていた。ガレージを叩く雨の音が響く意外に音は無い。アキは鍵が開いていたのが無用心だと思った。エンジンの開発データなど大事なものもいっぱいあるのに。
 とりあえず、濡れた服を脱いでしまいたかった。気候は暖かくなりつつあったが、体は濡れて芯まで冷えていた。ジャケットを脱ぎかけた手を一旦止める。脱いで一体何に着替えようというのか。勝手知ったるとはいえ、ここは自分の家ではない。勝手に着替えを借りるのもどうかと思った。もしかしたら、奥にいるのかもしれない。アキはそれぞれの部屋をノックしてみることにした。制服は上着だけ脱いだ。
 クロウもジャックもブルーノも居ないようだった。遊星の部屋の前でアキは立ち止まる。うめき声が聞こえた。
「遊星?」
 ためらいがちに部屋に入る。遊星は自分の体を抱えるようにしてベッドに体を横たえている。
「ねえ、大丈夫。遊星?」
 返事は無い。眠っている。うなされている。起こそうと手を伸ばした手を思わずアキは引っ込めた。遊星の瞳の端に光るものが見えたから。
 少なからずアキはショックを受けた。どうしていいかわからなくなった。皆を導いてくれる遊星。この街を救った遊星。アキを救った遊星。アキの見てきた遊星はいつでも大きく、強く、いつだってそこにあるはずだった。しかし、今ここに眠っている彼はとても小さく弱かった。アキの知らない遊星だった。
 アキはしばらくそこにそうして立っていた。遊星はうなされる中で時折、父と母を呼んだ。そして自分の行く道を彼らに問うのだった。
 どれくらいそうしていただろうか、雨とは違う雫が一粒アキの頬を濡らした。それをぬぐって、ようやく我に返ったアキは遊星に手を伸ばす。そっと手を取る。その手はじんわりと熱を帯びて暖かかった。
「……アキ」
 遊星は驚いたように大きく目を見開いた。少しの間そうしてアキを見つめ、それから「冷たい」とこぼした。
「あっごめんなさい」
 アキは慌てて手を離す。自分が体の芯まで凍えていることを思い出した。
「冷えてるな。寒かっただろう」
 遊星は慣れていなければ分からないだろうほど薄く微笑んで、アキに着替えとタオルを用意し、それから暖かいコーヒーを入れてくれた。
 遊星のジャージはアキには大きく、袖と裾を少し折るようだった。

「遊星はどんな夢を見ていたの?」
 コーヒーを飲みながらアキは問いかけた。
 遊星は強い。思えば一人で彼はずいぶん沢山のことを抱え込んできたのだろう。サテライトのこと、鬼柳京介のこと、両親のこと、龍可のこと、龍亞のこと、アキのこと。そしてそれができてしまう。できてしまってきたのだ。自分から踏み入らねば一生その身の内の痛みを話してくれないようにアキには思われた。
「見てたのか」
 声音から困惑が伝わってくる。
「ゼロリバース。たまに夢に見るんだ」
 遊星は小さく首を横に振った。これ以上は話してくれないようだった。僅かな沈黙の間にも雨はざばざばとガレージの窓を洗うのだった。
 あの頃は世界を恨んでいたけれど。アキは思う。それは周りのせいでもなんでもなかった。人を遠ざけたのは自分なのだった。本気で手を伸ばして拒絶されるのがアキは怖かった。はなから諦めてしまった。そうやってアキが意図して手放してきた大事なものは、みんな遊星が苦心して取り戻してくれたのだった。今度は何でもいい彼に返したい。手を伸ばしたい。何かしてあげたい。自然とそういう気持ちがアキの中に湧き上がってくる。
 その結果、アキが選んだものは料理だった。ポッポタイムが男所帯と考えれば妥当に思われた。それがどうにもうまくいかないのだけれども。
 

 アキは学校へ持っていくお弁当を自分で作るようになった。昨日のおかずの残りと朝自分で焼いた卵焼き。卵焼きはその日その日でしょっぱかったり甘かったり見た目が悪かったり、アキは毎日一口かじっては肩をすくめるのだった。
 空気が湿り気を帯び、雨の季節が近づいてきた。雨の気配がするたびにアキはうずくまってうなされる遊星の姿を思い出した。
 アカデミアに雷が落ちた。ブレーカーが落ち、教室が騒然となる。天気予報にも無い、予想外の荒天だった。授業をするにもプロジェクタも動かず、結局午前中で解散となった。あの日と同じく雨脚は強い。幸い風は弱く、あの日から持ち歩くようになった折り畳み傘も役に立ちそうだった。遊星がうなされている姿が思い起こされる。不安に駆られたアキの足はポッポタイムへと向かう。  遊星はDホイールの整備をしていた。アキに気がつくと顔をあげ「今日はそんなに濡れてないな」といつものように微笑んだ。
「今日も誰もいないのね」
「ああ、朝から皆なんだかんだと出かけてしまった。急に振り出したからな。今頃困ってるだろうな」
「そうかもしれないわ」
 少し安堵したアキはふふふと笑う。皆ずぶぬれで帰って来るに違いなかった。
 ぐぅ。安堵したらお腹が鳴った。アキは思わず顔を赤らめてお腹を押さえる。そろそろ昼時だった。
「そろそろ、そういう時間だったな。アキも食べてくといい」
「あ、私はいいの」
 アキは首を振る。今日もお弁当を持ってきていた。
「私、コーヒー淹れるわね」
 遊星が自分の昼食を作る隣でアキは棚を開けた。缶詰や乾麺の並ぶ脇、紅茶の箱が目に留まる。
「紅茶、あるのね」
 遊星に目を向ける。遊星は手際よく炒飯を皿に盛りながら返す。
「なんとなく、またアキが濡れてくるんじゃないかと思ったんだ。コーヒーや緑茶より、発酵度合いの高い烏龍茶や紅茶の方が体が温まるからな。そうだ、アキ。紅茶を淹れてくれないか」
「ええ」
 アキの目はまだ遊星の手元にあった。皿に盛り付けられた炒飯は彩りも良く、ぱらぱらと米の粒が立ち、香りは食欲をそそった。ここは男所帯だから料理であれば役に立てると思っていたが、とんだ思い違いだった。雨の音が大きくなる。ゆっくりと遊星の心遣いが身に沁みてくる。彼は相手の為に何をするかわきまえていると。相手の望むものをよく知っていると。自分の想いも努力も独りよがりだった。その事実が雨のようにアキの胸を打つのだった。
 ポットに茶葉を入れ、沸騰したお湯を少しだけ冷まして注いで二分。いつもの慣れた手順。マグカップに注いで机の向かいに座る遊星に差し出す。遊星は既に盛り付けた炒飯に箸をつけようとしているところだった。
「アキも食べるか?」
 アキの視線はいつの間にかまた遊星の皿へ向いていたらしい。湯気を立てる炒飯はとても香ばしい。
「一口、もらおうかしら」
「なら、交換だ」
 遊星の箸がアキの卵焼きに伸びる。
「それは」
 アキが止める前に卵焼きは遊星の口に入る。
「これは、アキが作ったのか?」
 言葉も出ず、アキは首を縦に振る。
「おいしい」
 驚いた。遊星の表情はそう言っている。
「うそ」
 アキも自分の弁当の中に残る一つに手をつける。口に程よい塩味と柔らかい甘みが広がる。おいしかった。
「すまない。正直、アキが料理をするのが意外だったんだ」
 遊星が笑っていた。いつものではなく、はっきりと笑っている。
「初めて成功したのよ」 
 アキも心の底から笑顔になる。
「アキはいつも居て欲しいと思うときに来てくれる。この間も今日も。なんとなく心細い時に。正直助かった」
 アキの体の奥で鼓動が一つ大きく鳴った。じんわりと体が暖かくなっていく。
「ゆうせ……」
 口を開こうとしたアキをさえぎるようにカランコロンとドアベルが鳴る。
「配達途中に降り始めるんだから参っちゃうよね。戻ってきたとたんに雨上がるし」
「全くだぜ。手伝わせて悪かったなブルーノ」
「いいって」
 どやどやとクロウとブルーノが入ってくる。
「どうした」
 そう問う遊星にアキは「なんでもないわ」と頭を振る。ドアに向かって振り返った先、窓の外は先ほどまでとは違い青い空が広がっている。窓に残る水滴がきらきらと光を反射している。
 言いかけたありがとうという言葉をアキはそっと呟いた。
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