氷の最後のひとかけら
氷の最後のひとかけら


 アキはなんだか眠ることができなくて居間に降りてきた。父も母も眠っていて、家はしんと静まり返っている。
 紅茶でも飲もうかと台所の戸棚を空けてはたと手を止めた。アールグレイの箱がある。父はコーヒー派で、母はアールグレイが苦手だ。この家でそれを好んで飲むのはアキひとり。これはアキの為だけに用意されたものだった。
 理解してこなかったのは私のほうかもしれない。
 ソファーに腰かけて紅茶をすすりながらアキは過去に戻っていく。
 能力が発現したあの日、あの瞬間の目が忘れられない。見てはいけないものを見たような、とても恐ろしいものを見たような、アキを化け物のように見たあの目。そしてそれはどこへ行ってもアキについて回った。
 自分だけで手一杯だった。両親の心の内まで考えることができないほど傷ついてしまっていた。今でもあの目を思い出すと真綿で締め上げられたような気持ちになる。
 ティーカップを置いて窓の外を見る。傷だらけの三年前のアキがそこに立っているような気がして――。
 誰にもアキのことは理解できなかった。自分でさえ自分が何者なのか分からなかった。ただ、人間じゃない。その事実だけがいつでもアキの隣に立っていた。デュエルをすればいつでも人を傷つけた。アキの力は意思に反して暴走し続けた。アキは恐怖され続けた。人ではない化け物だと蔑まれ続けた。疎まれ続けた。居場所など、どこにだってなかった。
 普通に生きたいだけだったのに。皆のように笑って学校に行って、放課後には遊びに行って。ただそれだけを何故させてくれないの。何故誰も私を理解してくれないの。声にならない叫びだけがアキの心に沈殿し、堆積し、凍りついていく。
 両親はアキを全寮制のデュエルの学校に入れた。今思えば、デュエルを学ぶことで力の制御を覚えて欲しかったのか、一度離れることで自分達の心の内を整理したかったのだろうと、そう想像できる。でも、あの時にはできなかった。ただもう両親まで自分を疎んだのだ。そうとしか考えることができなかった。
 そこから落ちていくのは簡単だった。到底受け入れることができないのならあきらめてしまえばよかった。人間になどならなければいい。魔女でいい。化け物でいい。今まで自分を苦しめてきたもの全部壊してしまえばいい。誰も救ってくれないなら、皆無くなってしまえ。自分には居場所なんかない。だから皆も失えばいい。私と同じように傷だらけになればいい。
 冷酷だけれど、本気でそう思っていた。もうとっくに壊れていたのかもしれない。
 だから、あの時の自分にはディバインは必要だった。唯一理解してくれた。寄り添ってくれた。この苦しみにも悲しみにも怒りにも。彼もアキと同じだった。彼はアキはアキでいいのだと言ってくれた。初めて自分の存在する価値をくれた。居場所をくれた。彼がアキに世界の全てをくれた。彼の正義が間違ったものであったとしても、それがアキの真実だった。
 彼のしたことは間違っていた。
 そんなこと分かっている。自分は体よく利用されただけ。そんなことだって分かっている。でも、でも――。
 アキは実家に戻ってきてからこんなことばかり考えてしまう。アキは彼を失うことで世界の全てを失い、不動遊星によってもう一度それを手に入れた。
 遊星には感謝の言葉しかない。自分と両親をもう一度結び付けてくれた。この忌まわしい力にもう一度意味をくれ、必要としてくれた。自分の過ちも叫びも全て受け止めてくれた。全てに心の整理がついたわけではないが、彼がこうして今をくれたから自分はここにいられるのだということがよくわかる。そして帰ってきてみて、初めて両親が自分を大事にしてくれようとしていることにようやく気がつくことができた。彼らが彼らで悩み苦しみぬいてきたことがようやく理解できた。
 一歩人間に近づくことができたのだろうか。
 そう思うと口の端から笑みがこぼれるのがアキ自身にも理解できる。これが自分に起きた最も大きく明確な変化だということも。
 でも、やっぱりディバインは消えてしまった。どんなに彼が酷い人だったとしても彼は遊星と同じく自分の恩人であって世間と同じように憎むことができない。彼が私にしてくれたことはいっぱいあった。そう、いっぱい。今でも、ディバインのことを思うときだけアキの心は凍りついたままなのかもしれない。
 白々と夜が明けてきた。結局眠れなかったな。カップとソーサーを片付けて、着替えるためアキは自分の部屋へと戻っていく。なんだか、遊星に会いたい気分だった。

「遊星なら出かけたぜ」
 噴水広場のガレージの前に立ったところで声をかけられた。
「そう」
 クロウは愛車を引きながら、アキの隣に立つ。配達を終えたところなのだろう。
「最近どう?」
「あ?遊星か?」
 違うわとアキは首を振る。
「あなたのことよ」
 クロウはああと言って肩をすくめる。
「さっぱりだなぁ。まあ宅配始めたばかりだし、知られてないから仕方ねえっちゃ仕方ねえけどな。今日も二つでおしまい。ほんっと商売あがったりだぜ」
 クロウはそうこぼしながらガレージを空けて、アキを招きいれた。
「インスタントで悪いな」
 愛車を片付けたクロウはアキの前にコーヒーを置く。お礼を言ってアキは口をつける。
「変わったよなお前」
 クロウが向かい側に腰を下ろす。
「そうね」
 自分でも本当にそう思う。
「遊星から最初話を聞いてたときはどんな恐ろしい女なんだろうと思ってたけどさ。会ってみたら綺麗だったもんでびっくりしたぜ。まあ、アキは笑わねえからちょっとおっかなかったけど」
「ひどいわ」
 そう言いながら、アキはマグカップの中の自分が微笑んでいるのを見た。自分の変化が実感できることが一番嬉しい。
「それにしてもお前わっかりやすいよな」
 何のことだか分からなくてアキは視線をカップからクロウのほうへ移す。クロウはいたずらっぽく笑っている。
「あいつ自分への好意にはものすごく鈍感だからさ。言わねえとわかんねえと思うぞ」
 かっと体が熱くなるのが分かる。なんだか恥ずかしい。
「確かに、恩はものすごく感じているけれど。そんなんじゃないのよ。ただなんだか、遊星ならわかってくれる気がして」
ふーん。そう相槌を打つクロウの顔はますます笑みが深くなる。
「やめてよもう。本当にそんなんじゃないのよ」
「わかったわかった。そういうことにしといてやるよ」
 クロウは声あげて笑っている。むくれながらもアキはなんだか楽だなと感じる。クロウもジャックもそして遊星もサテライトの生まれだという。聞けば自分なんて比べられないほどの苦しい生活を強いられてきたのだと。その彼らも笑っている。だから自分も大丈夫だとそう感じられる。ここに来ると不思議と体から力が抜けて楽になる。
 不意に電話が鳴った。ここのものだ。
「ちょっと席はずすな」
 クロウが電話に出る。慌ててメモを引き寄せて一生懸命何かメモしている。
「悪ぃ、配達入った。今から荷物取りに行くから俺ちょっと出るわ」
 クロウがジャケットを羽織ながら言う。
「じゃあ私もそろそろ」
「ああ、待て待て」
 立ち上がろうとしたアキをクロウが止める。
「たぶんもう十五分もしたら遊星帰ってくるからさ、もうちょっと待ってろよ。構わないから」


 クロウが出て十分ほどで遊星が帰ってきた。
「アキ、いたのか」
「ええ」
 遊星の頬には油の汚れがついている。彼も働いてきたのだろうか。
「遊星、顔汚れてるわ」
「ああ、ホイールの修理を頼まれたからな。たぶんそれだ。着替えてくるからちょっとまっててくれ」
 ふと先ほどのクロウの言葉が頭をよぎった。慌てて振り払うが、なんだかやっぱり顔が熱い。
「どうした」
 先ほどクロウが座っていた場所に遊星が腰かける。ほのかに油の匂いがする。遊星の匂い。安心する匂い。
「たいしたことじゃないのよ」
 ぽつり。ぽつり。言葉がこぼれた。遊星と関わると自然に心が丸裸にされてしまう。
 自分の変化の喜び、今の生活、自分は幸せだ。でもディバインは死んでしまった。彼のしたことは決して許されないとはいえ、どうしても憎めないのだ。自分を最初に救ってくれたのは彼だったから。
「許されない気持ちだなって私にもわかるの。でも――」
 二杯目のコーヒーは冷めてしまった。顔を上げる。遊星と真正面から目が合って慌てて目を伏せる。
「許されるもなにも。それでいいんじゃないか。真実は誰にでも同じじゃない。例えばミスティ。彼女達にとってディバインのしたことは許されることじゃない。でも、アキにとってのディバインは救いだったんだ。それがアキの真実なんだろ。アキが憎む必要なんてない。それでいいんだ」
 ああ。自分はまさしくこの言葉をもらいにきたのだ。アキは理解する。ミスティや他の人達がディバインによって自分によって傷つけられた。それは許されない。でも、ディバインが自分のような居場所のなくなったサイコデュエリスト達に居場所を与えたことをアキは知っている。
「でも、私達のしたことは許されない。だから私はそれだけは償っていかなければならないわ。私は人を傷つけすぎた。ディバインを憎まない代わりに、私はそういう道を探していかなければいけないのね、きっと」
 遊星はなにも言わずこちらを見ている。口の端がちょっと上がっているのにアキは気がついてくくくと笑った。
「遊星は笑ってるのか仏頂面なのかたまにわからない時があるわ」
 遊星は困ったように眉を下げる。
「アキはよく笑うようになった」
「そうよ。遊星、あなたのせいよ」
 冷めたコーヒーを一気に飲み干す。冷たい感触が胃にまで流れていく。それなのに凍りついていた体の芯が一気に温められて溶けていく。そんな気がした。
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