BOOK_羊の恋歌


シャルロットの部屋に夜な夜なヴィルヘルムが不法侵入するだけの話です。
シャルロット視点一人称で相変わらず名前が出てこない。

【本文見本】

その日から、羊の彼は毎夜私の部屋に訪れて優しい歌を教えてくれた。そのほとんどに詩は無くて、あっても私のわからない言葉だったからどんな歌なのかよく分からなかった。それでも、それを教えてくれる彼の声と、私がそれをうまく歌えたときに髪を梳いてくれる冷たい手がとても優しげだったから、きっとこの歌もそういう物だと思う。
彼はとても優しかったから、相変わらずなかなか寝付けなくって子供みたいに拗ねている私を笑ったり、呆れたりなんかしないで待っていてくれた。

ただ、少しずつ重たくなる瞼に私が耐えられなくなった時、何も言わずにベッドに運んで頭を撫でて、そのまま消えるようにどこかに行ってしまうのは少しだけ寂しかった。だから私は尚更長く起きていようとがんばってみるのだけれど、それでもどうしてか時計の針が四時を示す前には彼の手を握りしめたまま、一人で遠い所へ行ってしまう。
何度目覚めて途方にくれても、再び訪れた彼に何度その事を謝って今日こそ起きていると約束をしても、結局私の意識は規則正しくふつり、と消えてしまう。
それでも良い、それが本当は正しいのだと、彼は言う。その言葉を聞くたびに胸が、たぶん胸だと思う所が、痛かった。
彼の名前なんて解らないし、彼も私の事をお嬢さんとしか呼んでくれない。ただ、知らないんじゃなくて忘れてしまったんだって心のどこかで信じていた。思い出したいはずなのにどうしてもそれをしてはいけない気がする。知ってはいけない気がする。一度だけ彼にその事を告げたとき、少し悲しそうに微笑んでくれたのを覚えてる。よく解らなかったけれど、あの声は哀しみで、頭を撫でてくれた指先は優しかったから、そう思った。

「私の事を、何も覚えていないのだろう」
「ええ、でもどこかであった事がある気がするの。ただどうしても思い出せなくって、だから」
「良いよ、別に良いんだお嬢さん」
「でも」

良いんだ、と彼は繰り返す。
覚えているなら良い、けれど、忘れているならなおさら良い。そんな事を言われたら私ももう、何もいえなくってただ解ったように頷いてしまう。本当は何一つ納得していないのに。
名前を知りたい。どこから来たのか、どこへ行くのか。いつ私を知ったの。私の何を知っているの。私はどうしてあなたを知らないの。こんなに知りたいのに。それでも彼の困った声はもう聞きたくないから、良い子のふりをしていた。
お月様がまん丸で真っ青な夜。知ってしまったらきっと彼は泣いてしまう。私はもっと泣いてしまう。



[*前へ] [#次へ]




戻る
あきゅろす。
リゼ