春風

634:癒されたい名無しさん :2009/03/08(日) 00:45:46 ID:ddUUJqnU [sage]
こお、という湯沸しの音が徐々に大きくなる。
まだ冬の寒さを感じる部屋に金属の匂いを含んだ蒸気が広がる。
コーヒーを淹れなおそうと立ち上がった私の手から
小さなカップが滑るように転がり落ちた。
カチャリとごく控えめな音を立て、黒い液体が床に広がる。
それに反して私の視界は白く狭くなってゆき、
私はぎりぎりのところで一歩先のソファに倒れこんだ。
茶色の塗料が擦り切れてオレンジがかった古い合皮が頬にひやりと当たる。
強烈な眠気にも似た圧倒的な力に意識が閉じてゆくのを感じる。
…んせい、せんせい?…先生?
誰かが私の顔を覗き込んで呼んでいる。
顔にマフラーのふさが触れる。
冷たい、細い手が額に当てられる。
「大変。先生、熱が」
聞き覚えのある声。薄目を開ける。…櫻井?
同時に強烈な吐き気に襲われる。
やっとのことで洗面台のところへ行き吐いていると
彼女は私の背中をゆっくりとさすった。
…どうして?引越ししたんじゃなかったのか…?
ソファへ戻って座り込むと、彼女はあの時のままの丸椅子を
引っ張って座り、少し微笑んでこう言った。

「ただいま、先生」


       ― 春 風 ―

653:癒されたい名無しさん :2009/03/10(火) 23:05:30 ID:q+XWno2o [sage]
春風【二】

「ただいま、先生」

熱のせいもあってか、頭が全く回らない。
どうして彼女がここにいるのか?

そうか、櫻井も、もう大学生か。
もう自分の意思で、どこかへ行くことも帰ることもできる歳なのだ。
「先生?」
「ああ、おかえり」
「帰ってきました。春休みだから」
「帰ってきたのか、春休みだから」
「ええ、帰ってきました」
そういって彼女はまたふふ、と笑った。
「いいな、大学生は。春休みがあって」
「先生は春休みないんですか」
「ないよ、あったら倒れるまで仕事やってない」
そう言うと、櫻井は困ったような可笑しいような顔をした。
「死ぬんじゃないかって思いました。入ってきてみたら
 先生真っ青な顔してソファに突っ伏してるんだもの」
「死なないよ」
櫻井は腹がくちくなった猫のように満足げな顔をしてこちらを見ている。

「寒くはないですか」
正直なところ、かなり悪寒がする。頭も痛くなってきた。
「実験室の奥から二番目の棚から毛布を取ってきてもらえないかな」
「わかりました。奥から二番目ですね」
なぜか嬉しそうに毛布を取りに行く櫻井。ベージュのマフラーが揺れる。
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