影が濃い

今日で仕事を辞めた。

学生のときに憧れ、一生懸命就活して勝ち取ったプログラマーという職業は、しこたま働いていても誰のためになるわけでも社会の役にたつわけでもなかった。朝起きて会社に行き、明け方帰って風呂に入り寝る。金ばかり貯まって趣味に費やす時間と身体がない。そんな生活を律儀にも2、3年も続けてしまった自分自身を褒めてやりたい。
で、仕事を辞めたのはいいのだが、辞めて自由になったからといって趣味のスケボーを早々に始める気にもならなかった。本を読む気分でもないし、そもそも手持ち無沙汰で家にいると根っからの仕事人だった自分は、仕事に行かなくていいのかそわそわし始めてしまう。だから思い切って外で飯でも食べることにしたのだ。

そして今、目の前には天使がいる。

背伸びをしたたっぷりの睫毛と黒目がちの瞳に健康的な涙袋、肌はつややかな白さで髪は短髪、前髪は目線深めぱっつん。格好に似合わない小豆と金のツートンで無理矢理ツインテールに結んでいる。陶器の裂け目のような鋭く薄い唇が印象的だ。
「そこのおにいさんメイドカフェいかがですか」
頭何個分も小さい天使が上目遣いで自分の顔を伺ったこの瞬間、俺はこの人になら酷く殺されてもいいと思った。
「お嬢さん、俺と付き合ってくれませんか」
恋に落ちるのに数秒もいらないってこう言うことか。



*


もうすぐ春になる。

ダメ人間と生活を共にしてから3つぐらいの季節が終わった。春になれば自動的に1年記念になってしまう。記念ってものでもないんだけど。
生活を始めてから毎日のように通帳を眺めている、わたしの愛すダメ人間はどうやら貯金の残高があまりよろしくないようで、ここ最近はうわ言のように「働きたくない」と言っている。働かない味を一度知るとなかなか働こうという気にはなれないのは、わたしもよく知っている。
「まず煙草をやめればいいんじゃない」
人の家だっていうのに平然と毒ガスを撒き散らすダメ人間は、重度のニコチン依存症である。仕事をしていた時より本数は減ったというが、それもあまり信じられない。
「もって1ヶ月だな」
煙草の話は盛大に無視されたらしい。
人のベットにうつ伏せでもごもごと何か喋ったあと寝返り、わたしの方をじっと見て深い溜息を吐く。
「春原さん、俺働かなきゃダメかな」
「ごもっとも」
そうだよね、ダメ人間はさらに深く溜息を吐いた。
「まだわたしの金使ってないだけマシだけど、これからただの穀潰しに成り下がってヒモになるんだったらいい加減愛想尽かすよ」
「それは勘弁して……ホームレスになりかねない」
日本人らしく表情曖昧に、困ったように笑うダメ人間を横目で眺めて、わたしは呆れ顔で手に持ったコーヒーカップに口を付けた。なんとなくつけたテレビのニュース番組も気にならない程度には、この先の生活について重く悩んでいる。
それでも悩むこと、考えることが出来ない彼の代わりにわたしが頭を痛くするのは少し幸せだった。必要とされる快感に一度沈むと戻れない。
参ったなあ、ダメ人間は他人事のように言うと数秒で眠りについた。寝っ転がるとすぐ寝てしまうのが彼の悪い癖である。

本当はダメ人間とはすぐに縁を切るつもりだった。こうしてだらだらと続いてしまっているのは、しょうもない情が湧いたから。
通帳がゼロを記した後の話、わたしのメイドカフェの収入だけでは、この危機の中幸せそうに眠るダメ人間を養えそうにないのは重々承知しているつもりである。結局双方ダメ人間なので、やっぱり二人とも相手はマトモな人のがいいと思うんだ。
そうなんだよなあ、わたしもダメ人間の隣にぴったり寄り添って目を閉じた。
お金ってやっぱり二人が人間らしく生活していく上で大切で必要なんだ。

*

夜明けの甘い光で目が覚めた。
まだ星が輝いているぐらいの時間、寝る前に少しだけ開けた窓からゆるりと風が迷い込む。現実と非現実の間のような瞬間に、少しだけ香った煙草のフィルター焦げの香りだけが現実味を帯びていた。
寝起きでぼんやりと霞む視界の先10センチに、春原さんの綺麗な寝顔がある。長いまつげを揃えて静かに寝息をたてる春原さんを見て、この先何があっても例え森羅万象を覆すようなことがあっても、ずっと好きでいたいと思った。
「……働くか」
働くよ春原さん。



影が濃い













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