黒の落下

隣人が黒い傘を片手に晴天の青の下、8階建てマンションから飛び降り自殺をした。コンクリートに口付けした彼は、元の顔がわからない死体だったという。

隣人は初めて会ったときから変だった。俺がここに引っ越してきた去年の冬、蕎麦を持って挨拶に伺った時のことである。隣人は黒い無造作な髪型で、病的に白い肌と無精髭に仏頂面という自宅警備員の単語を彷彿とさせる出で立ちをしていた。よく見れば容姿端麗、背も高く鎖骨が浮き出るほどガリガリなので真っ当な格好していればそれなりに見えるといった人間だった。
蕎麦を持った俺を上から下まで視線3往復ぐらいして開口一番、うどん嫌いなんだよね、と苦い顔をした。俺の手には透明なタッパーに入った茹でたての蕎麦が2玉、見て取れる。確かうどんは白かったはずだが。
「うちのケメコが食うかもしれないからもらっとく」
結局そう殆ど口を動かさず言い、俺からタッパーをひったくって玄関の扉を閉めてしまった。
ケメコ、大槻ケンヂのエッセイが読みたくなる単語を久方振りに聞いた気がした。

次に隣人と会ったのは彼が死ぬ前の春の始まりだった。黒い傘を買っただとかで嬉々と俺の家を訪ねてきたのだ。
一方の俺は食事が喉を通らない原因不明の病に悩まされ、更に自傷癖を拗らせ入院した彼女から「あなたがいないと生きていけない」と夏目漱石よろしく狂気に似た依存とも取れる連絡が入っていて、それにも自分の体調同等に悩んでいた。別に俺は彼女がいなくても生きて行けるから困ったものだ。
同じか、それ以上に痩せこけた俺をみて、隣人は首を傾げた。
「蕎麦食えば」
俺のとこの冷凍庫入ってるから、隣人は黒い傘で彼の部屋を指す。ちょっとまてその蕎麦って去年あげたやつなんじゃねえか。呆れて言葉も出なかった俺に、じゃあ持ってくるからと無表情で黒い傘を預け、颯爽と蕎麦を取りに帰った隣人。
渡された黒い傘はどこにでも売っているような本当にただの黒い傘で、隣人はこれの何処に魅力を感じたんだろうと思った。試しに広げてみたが、内側に柄があるでもなくそこには薄い夜が沈んでいる。
「やっぱりなかった。ケメコがくったみたいだ」
急ぎ足でもなくのんびりと戻ってきた隣人は片手にWiiリモコンを持っていた。俺はそのWiiリモコンを眺めながら、そっかと呟く。そっかあ蕎麦、ないのかあ。

空が賑やかでなくなった頃、漸く食事が喉を通るようになってきた。今朝ゴミを捨てに階段を降りた時、あの隣人の部屋の扉に黒い傘が掛かっていた。そこまで気にしなかったが、傘の先端が少し曲がっている気がする。
通りすがった下の階に住んでいるピンクと金のふざけたツートンヘアーの小さい青年がぺこりと頭を下げた。そういえば隣人もこんな感じの雰囲気だったなあ、なんて死んだ彼の顔を思い出そうとするのだが、どうしても霞掛かって綺麗に思い出すことが出来ない。その程度の存在だったのだ。
あの世でも引っ越し先の隣人にうどん配ってるのかなあ。
「入院中のケメコに蕎麦でも食わせてやるか」
あいつうどん嫌いだから。










Fin*
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リゼ