外は、相変わらずの、雨。


「………」

終わりの無いように、止めどなく上から下へと落ちる雫。窓の向こうに広がる、何とも重い、灰色の光景。それをぼんやりと眺めてから、そっと目線を下げる。

「………」

視線の先には、曲げた右手を枕に、左手はだらんと前に伸ばし、机に突っ伏して眠る、同僚の姿。その寝顔の横には、綺麗に開かれた書簡と、中途半端に開かれた書簡。更に目を横に流せば、蓋の外れた墨壺、墨が付いている筆に付いていない筆、書簡をまとめる用の数本の紐、そして積まれた、沢山の書簡――…。
それらを見遣ってから浅く息を吐き、音を立てないように歩を進め、そろそろっと向かい側の椅子に座る。それから静かに頬杖を突いて、前に顔を向ける。

「………」

髪の隙間から見える、何とも平和な寝顔。この様子だと、当分は起きそうもない。取り立てて緊急の用事も無いから、このまま寝ていてもらおう。雨風の対策で、最近はあちこち走り回っておったし。

「………」

重なった長い睫毛から、ふと目を下に落とす。すぐそこには、小さな左手。此方の肘に届きそうな、細長い指。そんな五本の内の一本に、ふっと目が留まる。

「………」

何も着いていない、その一本。

「………」


……何か着ければ、もっと、特別になれるのだろうか。


ふとそんな事を考えて、ハッと顔を上げ、ぐぅっと唇をへの字に曲げる。泳がせた目を彼女の前の書簡に向け、細かい文字を上から下へ何度も何度も意味も無くなぞった。本当に細かくて、今度は目がぐぅっと細まった。
……全く、今日は休みだというに、またこう小難しいものを読んで、熱心に勉強をしおって。わしを見習って、もっとのんびりせんか。

「………」

なんてわざとらしく思いながら、しかしまた目は墨の文字達を離れ、一本の指に辿り着く。

何も、着いていない。……いや、着けようと、してこなかった。

「……蒼命……」

ぽつり、と口が、名を紡いだ。目の前で静かに眠る、同僚――そして、恋人の名を。


――…大切なものが出来るのが、特別な関係になるのが、正直、怖い。それを喜ぶ前に、喪うという事実の方が、自分の中では強いから。


喪う経験は、今までに何度もしている。そして、大切であればあるほど、喪う悲しみがどれほど大きいかも、何度も経験している。大切な今が、永遠に続く事は無いという事も、何度も、何度も、痛感している。そして、人の心も例外ではなく、移ろい、変わりゆくという事も。
だからこそ、いつか来るかもしれない終わりを迎えても、その傷が出来る限り浅くなるように、前に進まずに、日々を過ごせば良い。長年抱いてきた想いを伝え合えた、そんな奇跡的な幸せに満足して、これ以上を、望んではいけないのだ――…。

「………」

そう思って進み出さないくせに、日ごと時間ごとに彼女への想いは強まり、もっと関係を深く進めたいという望みは膨らむばかりで。我ながら、何と矛盾して理解不能なものなのだろうか。
まぁ、土行孫と蝉玉のように、自分達の関係を皆に示す事は望まない。わざわざ周囲に知って欲しいとは思わないし、人一倍恥ずかしがりな彼女も、望んでいない様子だったし。

「………」

ただ、自分達が特別な関係になれたという事を、この目で分かるような形にしたい。その目に見えない何かを、物理的に、実感したい。そんな自分も、確かにいる。
きっと、安心したいのだろう。彼女に選ばれるに足りる、確固たる理由を持たない自分。時折ふと、彼女に相応しい者は他にいるのではないかと、頭を過る事もある。
そう、未だに、心の底から信じられていないのかもしれない。この、大切で、奇跡のような今を――…。

「………」

ふっと、目の前の左手に意識が戻る。件の指の両隣は程良く距離を置き、関節も丁度良く緩やかに曲がり、細い紐一本位ならば通せそうだ。そして何とも都合良く、この机の上には、細い紐が、一本といわず何本もある。神様の悪戯か――否、好機と呼ぶべきか。
何気無く、右手で赤い紐を摘まみ上げる。それからそれぞれの指と指の隙間の大小を測り、何処にも触れないように、中指と薬指の狭い隙間にそーっと差し入れる。

「………」

幽かに震える右手を左手で押さえながら紐をゆっくり進めれば、しばらくして、紐先が机の天板に当たった感覚があって。そのまま指の力の加減と紐の入射角度を微妙に調節しながら、紐先を滑らせて、小指側に曲げていく。そうして指の隙間に紐先が出たのを確認し、ほっと息を吐いてから、左手で墨の付いていない細筆を持ち、紐が触れないように右手の指を細かく動かしつつ、筆の穂先で慎重に、少しずつ、少しずつ、紐先を手繰り寄せていく。
そして遂に、赤い紐の両端を両手で摘まみ、指を巻けるような形にまで至った。これだけの過程で、中々に疲れた。無意識に息を止めていたらしく、少し酸欠っぽくなってしまった。

「………」

本当は、こんなに疲れる必要など無いのだろう。こういった物を用意したいから、ちょっとその指を採寸させてほしい。その一言で、事足りるのだ。
しかし、その一言が、自分には出せない。彼女はこういう物を望むのだろうか、と思うから。彼女も、大切なものを喪ってきた人だから……と言えば聞こえは良いが、実際は、そういう物を贈るのが気恥ずかしいという自分の弱さが、奥底にある気もするのだが。
まぁ、渡せば受け取ってもらえるという確信はある。彼女は、人からの贈り物をちっとも拒まない、人の好意をきちんと受け止めて、喜んでくれる性格だから。だからこそ此方はヤキモキする事にもなるのだが、そこも好んでいるから、止めてもらう事も出来ない。

「………」

ただ、受け取ってもらえたとして、果たして着けてもらえるのだろうか。いや、渡したという事実そのものが大切か。しかし、ずっと戸棚の奥に仕舞われているのも、何か違う気がする。とはいえ自分は着けたとしても手袋で隠せてしまうから、彼女にだけ表立って着けてもらうのも、それは対等ではないか――…なんて考えて、はたと気付く。自分の、指先。

「………」

……あ、紐。

「………」

ぴたり、と思考が止まった。そのまま身体に任せれば、指は当たり前のように摘まんでいる右の紐先と左の紐先を交換し、そっと交差させ、すーっと引っ張って、細い指に赤い輪を作る。一瞬、ぴくり、と彼女の左手が動いて、此方はどきりとしたが、しかしそれ以上の動きは無く、穏やかな寝息は一定のリズムを保ったまま。
小さく上下する背中を注視しつつ、交差した根元を右手の指先で支え、再び左手で筆を取る。今度は穂先を墨壺に落とし、赤い紐に黒い線を引く。それから、先とは逆に、赤い紐を指の隙間から取り出した。

「………」

何とも無く、目線に、赤い紐を持ち上げる。

「………」

……ああ、黒い線の間は、こんなにも短いのか。

「………」


……そうか。この細い指で、今までずっと、戦い、癒し、仕事をし、食事を作り、触れて、撫でて、絡めて、包んで、そうして自分を幸せにしてくれていたのだな――…。


「………」

赤紐から寝顔に焦点を動かす。先から変わらない寝顔、なのに、先とは違う感情。胸が締め付けられ、その奥から熱いものが込み上げる。

これからもずっと、彼女を幸せにしたい。この手で、全身で、彼女を守りたい。


「――…」


……ずっと、傍にいたい。ずっと、ずっと、一緒に生きていきたい――…。


ふっと、息をするように、自然に、そんな欲が湧いてくる。

「………」

幸せになって欲しい、ではなく、幸せにしたい。生きて欲しい、ではなく、生きていきたい。その為には、自分をないがしろにしてばかりでは、いられない。
そんな風に、自分に思わせてくれた。そしてそれは悪い事ではないと、言葉で、行動で、表情で、教えてくれた。ずっと大切な、そしてこれからもっと大切になっていく、そんな存在。

「………」

しかし、こんな感情を、この自分が持つ事になろうとは、ちっとも予想していなかった。赤い紐が一本と、それに黒い印が二本。たったこれだけの物すら愛おしく感じる自分が何だかおかしくて、思わずふっと笑ってしまった。
今彼女が起きたら、どうなるのか。きっとすぐに固まって、どうして此処に貴方がとぎょっとして、寝顔を見られたと慌てふためくだろう。それから目を丸くして、紐について問うてくるだろう。それをはぐらかせば口を尖らせ、けれど深追いはせず、ただふわっと笑うのだろう。
そんな風に分かるのが、そして構えなくて良いのが、嬉しい。嫌われるだろうかとか、気を遣われるだろうかとか、そう考えなくても良い関係性でいられる今が、本当に嬉しい。

「………」

外は、相変わらずの、雨。

「………」

でもきっと、この重い空模様も、いつかは終わるのだから。その時には、綺麗な光輪を仰ぎながら、この赤い紐の輪を、もっと硬く、輝く環に代えて、同じ言葉を、今度は起きている彼女に向かって、ちゃんと伝えたい。きっとかなり気恥ずかしいだろうけれど、彼女は喜んでくれると、不思議と確信がある。

……そうだ。自分は、不確かな不安な未来ではなく、今目の前にいる彼女を、ただただ、笑顔にしたいのだ――…。



「……愛しておるよ、蒼命」



外は、相変わらずの、雨。手には、薬指の細さを確かに写し取った、赤い紐。雨が止む日が、楽しみだ。

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リゼ